女王様のご生還 VOL.75 中村うさぎ

人生に意味があるとは思わないが、自分の人生に勝手に意味を見出すのは快感である。

誰にも認めてもらわなくていい、自分だけが満足できればいいや、という程度のきわめて個人的な「意味」だ。

他者に承認してもらう必要がないので、これは楽。



我々を苦しめているのは、結局のところ、「他者の承認を欲しがる」欲求だ。

他者なんてものは自分の思いどおりにならないし、まったくあてにもできない存在である。

なのに、どうして我々は、こんなにも他者の承認を欲しがるのだろう?



トランスジェンダーの人が自分を「女(男)」だと思うのは自由である。

どんなアイデンティティを持とうが、個人の勝手だ。

そのアイデンティティを補強するために身体を改造するのも自由だ。

だが、周りの人間に「自分を女(男)として扱って」と要求したり強制したりするのは、どうなのか。

あなたをどうしても「女(男)」として見れない人がいても仕方なかろう。

それを「差別」と言うのなら、世の中の大半の人間は自分の思いどおりに他者から見てもらえないので、みんな被差別者ということにならないか。

そのために迫害を受けたり人権を侵害されるのなら「差別」だが、自分の思ったとおりに扱ってもらえないなんてのは差別と言えないと私は思う。



人は自分のアイデンティティを自由に設定する権利がある。

だが、自分の決めたアイデンティティを認めるよう他者に強要する権利はない。

もちろん蔑みや嘲笑に甘んじる必要はないが、違和感や疑問を持つことさえ「差別」と言われては、理解したいという努力さえ封じられる。

他人に「理解しろ」「受け容れろ」「承認しろ」と要求するのなら、相手の疑問や違和感に対して丁寧に辛抱強く答える義務もあると思うのだが。



他者の承認を求めてもなかなか得られないのが人生というものであり、社会というものだと私は思っている。

自分だって他者を無条件に承認することは不可能なのだから、自分が思うような形で承認されないのも当たり前だろう。

それが大きなストレスとなるのなら、いっそ他者の承認など求めずに生きていけたらどんなにいいか。

だが、人間は他者の承認によって初めて「自己」の輪郭を作り得る生き物であるから、「他者なき人」はこれまた社会で困った存在となる。

己を映す鏡として他者が機能しないと、当人は客観的な自己像を作り上げることができず、そのまま勘違い人間として生きていく羽目になるわけだ。

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