「キミ、書いてみない?」という一言で(結城浩「書くという生活」)

こんにちは、結城浩です。

以下のリンク先にある記事は、作曲家の吉松隆さんという方の文章で「作曲家になること」をめぐっての読み物です(2013年)。

 ◆音楽家(作曲家)になるには・なれれば・なれたら 

この中にはいくつか興味深い話がありますが、特に結城の心にとまったのは以下の点です。

 ・「一万時間の法則」ひとつのことをモノにするには一万時間の鍛錬が必要。

 ・1日作曲を怠ると3日取り戻せない、2日休むと1週間は元に戻らない、3日休むと取り返しが付かない。

 ・「キミ、書いてみない?」と声を掛けられるのが、作曲家としての仕事をやるきっかけになるパターンが多い。

●一万時間

「一万時間の法則」ひとつのことをモノにするには一万時間の鍛錬が必要という話。

「一万時間の法則」は別のところでも聞いたことがあります。一万時間というと、たとえば3時間×365日×10年だと10950時間。毎日欠かさず3時間かけると、一万時間を達成するのに10年かかるのですね。極端に毎日8時間だとすると、一万時間を達成するのに3年半。

さてこれは長いか短いか。オーダーとしてはあっているような気がします。

これと並べて語っていいかどうかはわかりませんが「10年」という区切りには、それなりに意味があるように結城は感じます。

というのは、結城が「C言語」というプログラミング言語に出会ってから、C言語の本を出版するまで約10年の月日が経っているからです。もちろんその間ずっとC言語の鍛錬をやっていたわけではないのですが、約10年くらい時間を掛けると何かしら語れることはまとまるかも…と思うのです。

●一日怠ると

1日作曲を怠ると3日取り戻せない、2日休むと1週間は元に戻らない、3日休むと取り返しが付かないという話。

「1日作曲を怠ると3日取り戻せない」というのはどうでしょうか。タイピングやプログラミングで似たようなことを感じた経験はありますね。ある程度頭をふだんから使っていないとどこかさびついてしまう感覚はあります。言葉がうまく出てこないとか、適語選択に時間が掛かるとか、そういう感覚です。

●キミ、書いてみない?

「キミ、書いてみない?」と声を掛けられるのが、作曲家としての仕事をやるきっかけになるパターンが多いという話。

「キミ、書いてみない?」という言葉には強く頷くところがあります。結城自身も、本を書き始めたのはこれに近い言葉を掛けられたことがきっかけになっているからです。

 「結城さんは本を書かないんですか?」

そういうひとことです。そのひとことで、

 「あ、そうか、私も本を書いていいんだ」

という気持ちになったのです(思考が単純ですね)。

たぶん、そのひとことを聞くまで自分が本を書くということを具体的に考えた経験はなかったと思います。自分が本を書けるか書けないかではなく、そもそもそういう選択肢すら考えたことがなかったのです。でも、いまやそれで生計を立てている状態です。人生はまったくわからないものですね。

ただ、大学時代から文章を書く練習のようなものは自主的にやっていました。系統だってはいなかったけれど、とにかく原稿用紙をたくさん埋める練習です。身辺雑記のようなものをたくさん書いていました。当時は原稿用紙に万年筆で手書きでした。大量に書く練習もやっていました。そういえば、なぜそんなことをしてたんだろう。

文章を書くことは好きでしたし、自分が書いた文章を読み返すのも大好きでした。心地よさがいつもそこにありました。表現するために苦悩する感覚は少なく、むしろ書くことで気持ちよくなる。語ることで何かのカタルシスを得る。そういう感覚で書いていたことが多かったように思います。

二十代には二十代の悩みや苦しみもあったわけですが、書くことによって、自分の悩みや苦しみを受容できる形態に変容させていたのかもしれません。

若い時代には、何らかの強いエネルギーが発散する方向を求めて動いているものです。そしてそれが何かの出会いや何かのきっかけで道を見つけて人生が流れていく。そんな感覚があります。「神さまの導きで」と表現したくなるような、偶然とは思えないできごともあります。

自分の中で動いているエネルギーが、「キミ、書いてみない?」という一言で、ポンッと出口を見つけたりする。

そういうことなんでしょうか。

結城メルマガVol.058より)