先日、脳研究者の池谷裕二先生と対談した折に、母親の認知症の話をした。
既に何度か書いたと思うが、母は時々、連れ合いである夫が誰だかわからなくなる。
「家に知らない男の人がいるの。いい人みたいだから怖くはないんだけど、あの人は誰なのかしら?」などと近所の人にも言っていたらしいし、家でくつろいでいる父親にいきなり「あなた、ご家族は? 帰らなくていいの?」と訊いたりするのだ。
私はこの話を父から聞いた時、「カプグラ症候群」を思い出した。
「カプグラ症候群」とは、家族や友人を「偽者だ」と思い込む奇妙な脳の障害だ。
患者は、それまで仲良く暮らしていた妻のことを急に「あの女、僕の妻にそっくりなんですけど、絶対に偽者なんです。何者かが妻に化けてるんですよ」などと言い出す。
家族に限らず、友人やペットまで「偽者」に見えるらしく、「自分の周りの者がすべて『そっくりさん』にすり替わってしまった」という悪夢のような世界で生きていくことになる。
長年連れ添った夫が「見知らぬ人」に見えてしまう母の症状と、この「カプグラ症候群」は似ているような気がして、脳の専門家である池谷先生に尋ねてみたのだ。
すると池谷先生曰く、
「ああ、うさぎさん、それってカプグラ症候群の逆ですよね」
「逆?」
「だってカプグラ症候群は、家族の顔はちゃんと認識できるんですよ。これは自分の妻、自分の親だということはわかってる。ただ、視覚情報と情動を結ぶ配線が切れてるから、妻や親を見た時に生じるはずの愛着の気持ちが湧いてこない。それで、『こいつは妻にそっくりだけど、どうやら偽者に違いない』と思ってしまうんです」
「ふむふむ」
「だけどお母さまの場合は、夫の顔が認識できないんですね。顔を見ても、それが夫だということがわからない。だけど、愛着の気持ちは残ってるから、怖がったり騒いだりしないんです。カプグラ症候群とはちょうど正反対の現象ですよ」
ああ、そうか!
先生の言葉に、私は心の中で膝を打った。