女王様のご生還 VOL.22 中村うさぎ

先日、「サイエントロジー」というカルト教団の元信者のインタビューをしているドキュメンタリーを観ていたら、ちょうど友人から恋愛相談のラインが来た。

それに答えてるうちに、「恋愛」と「カルト信仰」って本当に酷似しているなぁ、と改めて感心した私である。



カルトに限らず信仰というものは、まず「神への期待」から始まる。

「神を喜ばせれば、神は必ずあなたの期待に応えてくれる」

これが「信仰」の動機となる。

この場合の「期待」とは、いわゆる「ご利益」であったり、「神に愛される」という承認願望の充足であったり、人それぞれだが、まぁ自分の欲求を神にぶつけているという意味では似たり寄ったりだ。

だが、神は必ずしも信者の期待に応えてくれない。

望むようなご利益が与えられる保証もないし、ましてや「神の愛」など確認しようがなく、信者はますます不安を募らせる。



恋愛では、この「神」の部分が、そのまま「彼(彼女)」に置き換えられる。

すなわち、「彼(彼女)を喜ばせれば、彼(彼女)は必ずあなたの期待に応えてくれる」。

これである。

どのように「期待に応えてくれる」かと言うと、相手があなたの望むような愛し方、望むような扱い方をしてくれる、ということだが、そんな奇跡はほぼ起きない。

何故なら、あなたの見ている彼(彼女)は、「神」と同様、あなたが脳内で作った「自分に都合のいい彼(彼女)」であり、相手はあなたの幻想どおりの存在ではないからである。

そういう意味では、「存在しない神」に期待するのも、「幻想の彼(彼女)」に期待するのも、どちらも同じくらいにひとり相撲だ。



相手が神であろうと恋愛対象であろうと、期待に応えてくれない相手を必死で求め続けるのは至難の業だ。

で、当然、信仰は揺らぐわけだが、その際に宗教は信者を次のように誘導する。

「神があなたの祈りに応えてくれないのは、あなたの修行が足りないからだ」

要するに「自罰」という思考経路によって、「神」への疑いを封じるわけである。

恋愛でもまた、これとまったく同じ思考経路が作り出される。

「彼(彼女)が期待に応えてくれないのは、自分の愛し方が足りないからだ」

相手が自分の望むような愛を与えてくれないのは自分のせいであり、自分がもっと相手への愛を証明すれば、あるいは自分が心から相手を信じれば、きっと相手は応えてくれる、と。

つまり、「今の自分では愛される資格がない」と思い込むことで、人はますます相手の愛を獲得しようと必死になるわけだ。



多くの宗教が「献身」や「自己犠牲」を求めるのは、この「自罰」システムをうまく利用しているからである。

神への疑いが生じると、信者は自動的に自分を責め、献身や自己犠牲によって信仰を証明しようとする。

恋愛もまた然り。

相手への疑念や不信が生じると、人は「相手を責めるか」「自分を責めるか」の二択を迫られるわけだが、この時、他罰的な人間は相手を責め、自罰的な人間は自分を責める。

前者は相手に「献身」や「自己犠牲」といった過剰な要求をして苦しめるようになり、後者は宗教の信者と同様に「献身」や「自己犠牲」で己の愛を証明しようとする。

要するに、他罰的な人間は「神」になろうとし、自罰的な人間は「信者」の道を選ぶわけだ。



はっきり言って、これほど不幸な関係はない。

何故なら、他罰的な神には「己を顧みる」という発想が一切ないために相手への要求がエスカレートするばかりであるし、自罰的な信者の方は「相手を責める」という発想が封じられているためにますます苦しい献身や自己犠牲を己に課すからだ。

そして、結果的には、どちらも望んだ愛を獲得できない。

神は相手の献身に永遠に満足せず、信者は「決して満足しない神」に自己犠牲を払い続けて疲弊するのみだ、

そして、信仰も恋愛も、いつか破綻をきたす羽目になるのである。

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