女王様のご生還 VOL.70 中村うさぎ

私にとっての「愛」の定義とは、「受容」と「寛容」である。

これはおそらく幼い頃から刷り込まれたキリスト教的な概念であろう。

もっとも、クリスチャンで本当に「受容」と「寛容」の愛を実行している人を、あまり見たことはないが(苦笑)。



キリストの説いた「受容」と「寛容」の愛は、人間にとって到達不能と言ってもいいほど難しい。

我々がナルシシズムに支配されている生き物である限り、他者を完全に許し、受け容れ、愛することなど不可能だ。

が、だからといって、努力する必要がないとは思わない。

たとえ到達できなくても、努力してみる価値はあるだろう。

「汝の敵を愛せ」を本当に実行できたら、この世から戦争はなくなるはずだからだ。



「愛」について考える時、真っ先に思い浮かぶのは夫のことである。

彼が何故、私のような愚かで身勝手な人間をこれほど献身的に愛してくれるのか、その理由が本当に理解できない。

そのうえ、身体が不自由になってからは、愚かさと身勝手さに加えて手のかかる人間になってしまった。

なのに、彼はどうして私に愛想をつかさないのか?

クリスチャンでもないのに、何故、愛される資格のない人間に途方もない愛を注ぐことができるのか?

そう、私には彼に愛される資格など微塵もない。

はっきり言って、自分は誰にも愛されなくて当然の人間だと思っている。

こんな偏屈で傲慢で怠惰な人間を、私は自分以外に知らない。



とはいえ、夫はべつに「博愛」の人ではない。

他人に対する好き嫌いが激しく、許さないと決めた相手は一生許さない。

その場合、相手を罰するのではなく、遮断する。

罰や復讐は、相手との関係性への執着だ。

が、彼は関係性自体を完全に断つ。

彼がシャッターを降ろしたら、二度と開かない。

どんなに仲の良かった相手でも、その瞬間から見知らぬ他人以下の存在となる。

その氷のような冷淡さには、しばしば驚かされる。

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