父の信仰にしろ、私の棄神にしろ、どちらも結局は「神を探す迷路」なのだと思う。
そう、まさに、カフカの「城」だ。
誰ともわからない雇い主に呼ばれて知らない街にやってきた主人公は、雇い主に「自分は何故雇われて、何をすればいいのか?」を訊きたくて街をさまようが、意味のわからない状況や人物に振り回されてぐるぐると迷路のような街をさまよった挙句、最後まで雇い主に会えないまま終わる。
未完の作品なので本当は最後に会えるはずだったのかはわからないが、私は会えないまま終わると思っている。
何故なら、雇い主とは「神」のことだからだ。
私たちは、自分が何故生まれてきたのか、何をなせばいいのか、常に答を探している。
神がその問いに答えてくれるなら、どんな遠い場所にも足を運ぶだろう。
だが、神は答えない。
どこにいるかも定かではない。
いや、それどころか、神が実在するのかどうかもわからないのだ。
こうして私たちは、不条理に支配された迷路をさまよい続け、旅の途上で命が尽きる。
それが「人生」というものだ。
カフカの「城」は、その「神(雇い主)の不在」と、それでもなお答を探し続ける人間の目に映る「神なき世界の不条理」を描いている。
と、これは私の勝手な解釈なので、カフカが「違うもーん!」と墓の下で憤慨してるかもしれないが、まぁ死人に口なしってやつだ。知ったことか(笑)。
神のいない世界は確かに不条理に支配されているが、神がいたとしても世界はやっぱり不条理だ。
ということは、そもそも「不条理」こそが神の「条理」なのではないか、という疑惑が頭をもたげる。
我々は世界を「不条理」と感じるが、それはあくまで人間にとっての「不条理」である。