今日も怪獣日和 第1回「名勝負、逆転を決める鉄則とは何か?」

 「特撮映画」という言葉より、「怪獣映画」という言い方が好きだ。私の原点が怪獣同人誌「PUFF」と「怪獣倶楽部」にある、というのも理由のひとつである。そんなわけで、「怪獣映画」というタームに少しこだわって文章を綴る連載ページをいただいた。どうか、よろしくお願いします。

 本誌にはなんと創刊2号以来の執筆。当時は本名での参加で、アニメの記事であった。そういうポジションのこともあるので、少しアニメの方にもクロスオーバーしつつ、いろんな話をしていきたい、と思う。

 さて、最初の話題としては、こういうのはどうだろうか?

 『キングコング対ゴジラ』、世紀の決戦はどっちが勝った? ほとんどの本には「引き分け」とあるはずだ。私も昔、何かの本でそう書いた気がする。しかし、最近DVDで再見して注視すればするほとに、この勝負、キングコングの逆転圧勝に思えてくるのである。

 これを理解するために、まず次のような古典的有名作品との共通点を探して欲しい。アニメも特撮も、そこは関係ない映像世界の原則が見えてくるだろう。

 『サンダ対ガイラ』メーサー車は人類の脅威サンダに圧勝する快感を見せつける。だけど、砲塔のカマ首が回るのはなぜ? 設定があるから?

 『マジンガーZ対暗黒大将軍』ボロボロのマジンガーZが逆転勝利して気持ちがいいのはなぜ? グレートマジンガーが助けに来たから?

 『機動戦士ガンダム』第1話でガンダムはザクにやられそうになるのを辛くも防ぐ。ドキドキの逆転感があるのはどうして? 連邦の白いモビルスーツが強く設定されているから?

 実はこれらはすべて、「映像上の左右の方向性の逆転が、勝負の逆転のきっかけになって、観客の快感をよびさます」という画面構成の流れを取っているのである。

 舞台劇における原則に、「上手」(向かって右)と「下手」(向かって左)というものがある。能や狂言の勉強で学校でも習うはずである。強い者、主役は画面の右から登場し、弱い者、脇役は左から登場する。だから強い者は左手の方向へ移動していく。これを遵守しているのである。この方向性の逆転をいかに巧妙に盛り込むかが、先述の職人芸的演出に現れている。

 メーサー車は、ガイラの脅威が席巻しているときには下手から登場する。だが反攻作戦の準備が整った瞬間に、背を向けていた砲塔がゆっくりと回り、下手方向に狙いをつける。これが反撃の予兆となり、心臓がドキドキする。事実、猛攻撃が始まると左から右に移動するガイラを左に向かうメーサー殺獣光線が迎え撃つからこそ、大逆転に見えるという仕掛けだ。

 マジンガーZは暗黒大将軍の軍団に負けているとき、画面左手方向に押されっぱなしの態勢をとる。グレートマジンガーからマジンガーブレードを受け取った後でも、戦闘獣アルソスに画面の左方向へ追いつめられていく。やっぱりダメか……と観客の気持ちが入った瞬間、ドリルミサイルが弱者の左手から強者の右手側に連射されて戦闘獣をやっつけ、危機を脱する。ラストでは、Zがとどめを刺した上に右側に立っているから、あくまで勝者はマジンガーZで、グレートは助力者、という印象も残る。

 2機目のザク(デニム機)が迫るとき、ガンダムはしゃがんで左から右方向へビームサーベルの先端を向けて構えている。左に向かってジャンプするザクを、ガンダムは右方向へ押し返すように突き刺す。ザクが破れた後は、ガンダムが右側に立っている画がフルショットで入る。

 それぞれ逆転の契機や押し戻し方に差はあるが、右から左へ移動する者は強く感じ、左から右へ移動する者は強いものをはね返して行くように感じる、という共通点があることがお分かりいただけるだろう。

 この原則からキングコングとゴジラの戦いを再見すると、勝負のたびに優勢な方が上手ポジションを取る、という構図の妙に気づくようになる。そして、優劣の逆転のポイントには必ず「投げ返す」という反転のアクセントがつけられている。有名なジャイアントスイングのショットもその代表例だ。

 出色は、ゴジラが口に押し込められた木を燃やしてはねかえす演出だ。ここではコングが下手に位置しているから、一瞬、観客に「コング危うし!」と思う。だが、コングが火を胸で右へはねかえすから、「キングコングは強い者に負けないんだ!」という力強さの表現に高まる。

 事実この直後、キングコングはゴジラを上手から下手方向に投げ飛ばす。そこから後は、下手方向に押して押して押しまくる映像に転換する。さらにキャメラがシネスコの画角を意識して客観的に引き気味中心だったのが、寄った主観のアップの短いカットバックになり、鼓動の高鳴りを喚起して気持ちが主観的にぐっと入っていく。

 ここでいきなり熱海の風景の客観的なロングショットがポンと入るのがうまい。その落差、飛躍に非常に映画的な快感が宿る。両雄の戦いは、時間を忘れるほど激しいものだった、という実感が産まれるからである。

 最終的に、キングコングはそのまま左手方向へどんどん押しきって、熱海城を壊してもつれるように海へ落下する。そして浮上後は、そのまま方向性のない画面中央、つまり戦いのない南の島へ泳いでいく。この最後のニュートラルゾーンへの変化があるから、「キングコングの方が逆転勝利して平和が戻った」という気分が残るのである。それは決してゴジラが浮上してこないからだけではない。

 こういった原則を、原稿を書くとき意識せざるを得ないようになった。そして、私も編集協力で参加させていただいた「映像の原則」(富野由悠季著:キネマ旬報社・近刊)には、これに類するさまざまな原理原則が記されている。『機動戦士ガンダム』の原作者・監督で、最新作の劇場版『∀ガンダム』も絶好調の富野監督が、自身のノウハウを明かした待望の著作だ。この本を片手に「怪獣映画はどうなっているのか?」とDVDを再見するのも一興ではないだろうか。

 「画面構成」というと、ついついレイアウトの静止画的な緻密さが連想される昨今の世の中である。だが、フィルムは生き物、人間も生き物である。だからこういった生理に基づくフィルム上の流れや動きといった運動法則にしたがってしまう。そんな指摘や発見自体、すごくエキサイティングなことだ。こんな風に、怪獣映画の「お楽しみ」は、まだまだ当分続きそうである。

【2002年1月11日脱稿】初出:「宇宙船」(朝日ソノラマ)