出る杭がいない? 育てればいいんです!(第27回) 【 経営学は、使えない 】

 では、人類は、このことをどこまで分かっているのだろうか。

 今や人類は、自然の事物については、事実を重視するようになった。必ずしもそれが本質と気付いているわけではないにせよ、本質を重視するようにもなった。その結果、自然科学は発展してきたと言える。他方、一部の国や地域を除いて、社会的な事物についても、さすがに事実を重視するようになった。

 しかし、社会的な事物については、いまだに本質をないがしろにしたままである。既に述べたように、社会的な事物の本質は、まったく分かっていないに等しい。

 よって、概して、社会的な事物についての思考は、偽(「真偽」の偽)である認識をインプットとすることになり、いかに論理的に思考しようとも、アウトプットは偽、すなわち誤りとなる。仮に本質が分からぬまま事物をその事物と捉えることができても、本質が分からぬ以上、運よく本質に基づく場合を除き、思考は本質以外の属性である偶有性に基づくものになる。よって、せいぜい偶有的に(たまたま)真になるだけだ。

 自然科学とは違って、政治学、法学は言うに及ばず、経済学、そして経営学などの社会科学(本来、科学とは呼べないが)が皆、矛盾し合う諸説が乱立状態のままの学問であることは、このことの証左となっている。世間はこの状態に慣らされてしまって特段おかしいとは思わないが、本当はおかしなことなのだ。

 そして、これは社会的な事物の一種であるビジネスについても同様である。だから、MBA(経営学修士)ホルダーを過大評価しないほうがいい。彼らが学んだ経営学は、それなりに論理的であるから「もっともらしい」が、ビジネスとそれに関連する事物についての「偶有性の体系」でしかない。だから、ろくに使えない。

 ただし、それを本質に根差したものに再構築できれば、話は別である。経営学の真である正しさは飛躍的に高まり、よって価値である正しさも飛躍的に高まって、大いに使えるようになる。故に私は、この世の全てのMBAコースに、基盤科目として「出る杭研修」的なものを組み込むべきだと本気で考えている。

 なお、「部分最適」と「全体最適」も含めて、ある集団にとっての価値である正しさを持つ認識をインプットとするアウトプットは、概してその集団にとっての価値である正しさを持つ認識となってしまう。いかに論理的に思考しようとも、だ。

 だから、省庁にとっての最適という「部分最適」な考えを前提として中央官僚が論理的に出す結論は、概して、そのまま「部分最適」なものになり、国にとっての最適という「全体最適」なものにならない。しかし、それなりに論理的であるから「もっともらしい」ものであり、論理を突き崩すのが難しい。よって中央官僚を優秀だとする者もいるが、それは「全体最適」の観点からは誤った評価であり、逆に劣悪なのだ。

 それに、実は中央官僚の論理を突き崩すのは容易である。ただ、前提が「部分最適」であることを指摘すればいい。それだけで、その上に組み上げた論理は総崩れとなるのである。