女王様のご生還 VOL.24 中村うさぎ

先月、母親が徘徊して警察に保護された騒ぎを戒めとしたのか、父親が83歳にして人生初のスマホを購入した。

というか、携帯電話自体が初めてである。

使いこなせるだろうかと心配してたら、案の定、電話の掛け方すらわからないという。

何のためのスマホだ。

しかも、空メール送ってくるのやめて、父ちゃん。

こんな状態だと、父がスマホを使いこなせるようになるまで半世紀ほどかかりそうだ。

その間にみんな死ぬだろう。



母の記憶障害は日に日に悪化しているようである。

午前6時ごろに父が人の話し声で目覚め、玄関に出て行くと、近所のおばさんが来ていて母と何やら話しているという。

こんな早朝に何事かと思ったら、母が彼女に電話して「知らない男が家にいる! 怖い!」と訴えたのだそうだ。

「知らない男」というのは言うまでもなく父のことなのだが、そんな電話で叩き起こされて放置するわけにはいかず、急いで我が家に駆けつけてみたら、当の母親は電話をしたことすら忘れていて、玄関で「どうしたんですか?」などと驚いてみせたという。

まったく、いい迷惑だ。



父と母はもう長い間、別々の部屋で寝ている。

最近、母は自分の部屋でひとりでいることが多いという。

「だけどな」と、父が言った。

「ひとりで自分の部屋に籠ってると、なんだかいろいろ妄想が膨らむらしくてな、いきなり足音荒く部屋から出てきたと思ったら、俺に向かって怒鳴り散らすんだよ」

「なんて言って?」

「あなたは私の財産を全部奪って自分のものにしようとしてるでしょ!とか」

「心当たりあるの?」

「ないよ! ただ、すぐキャッシュカードを失くすから、俺が通帳と印鑑を預かってるんだよ。普段はそれで納得してるんだけど、時々、ひとりで部屋の中にいるとムラムラと腹が立ってくるらしいんだよね」

「ふぅん」



朝の6時に近所の奥さんに電話した時も、母はひとりで自分の部屋にいた。

ひとりで部屋の中に座っている時、彼女の脳内でどんな妄想が広がっているのだろう。

知らない男が家にいて、自分の財産を奪っているという妄想か。

周囲にとっては根拠のない被害妄想に過ぎないが、彼女にとってはそれが「現実」なのだから、どんなに恐ろしい想いをしていることかと想像すると、母が気の毒になってくる。

そのような「現実」に生きている母がかわいそうだ。



人は「忘却」によって救われると私は考えている。

どんなに辛い事や苦しい事も、時間が癒してくれるのは、人間に「忘却力」があるからだ。

だから母が認知症になっていろんな事を忘れていくのも、彼女が「忘却」によって辛い人生から解放される過程であれば、それはそれでいいのかもしれないと思っていた。

認知症はもしかすると、人間が長く苦しい人生の旅路から解放されるための神の贈り物かもしれない、なんてことも考えてみた。

が、「忘却」によって母が得たのは、今のところ、幸福どころか恐ろしい「現実」だ。

今まで心から信頼し頼ってきた夫が突然見知らぬ男に変身して家に居座り、彼女の物を奪おうと画策している、という悪夢のような現実。

残り少ない人生の時間を、そのような悪夢の中で生きることになるとは、神というのはいったいどこまで人間に対して意地悪なのだ。



「物盗られ妄想」は、アルツハイマーの典型的な症状だという。

物忘れが酷いので、いつも何かを失くしてしまう。

でも自分が失くしたとは考えないので、誰かが盗ったと思い込む。

そして、身近な人間をその犯人だと断定する。

その瞬間、何十年もの年月の間に培ってきた情愛や信頼は、跡形もなく消えてしまう。

夫婦とは何だったのか、家族とは何だったのか、私たちがもっとも拠り所とする「愛」とは何だったのか。

アルツハイマーは、その厳しい真実を突き付ける。

「愛」なんて幻想だったのだよ、と。

おまえたちはその幻想を信じ、何十年という月日をかけて築いてきたが、そんな努力はすべて無駄だったのだよ、と。

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