出る杭がいない? 育てればいいんです!(第15回) 【 我々は無知である 】

 Where の話からWhatの話に戻ろう。

 厳密に考えれば、我々が「それは何か」、すなわち本質とするものは、人類が知り得る事物の範囲内で本質であると思うものでしかない。しかし、我々は、この世の全ての事物を知ることができない。

 ならば、我々に最大限できることは、人類が知り得る事物の範囲内で本質を正しく知ることであり、我々は、それをするしかない。

 では、我々は、人類が知り得る事物の範囲内でなら、本質を正しく知る、すなわち本質を分かっているのだろうか。

 自然の事物の本質については、必ずしもそれが本質であると気付いているわけではないが、既にある程度分かっているし、今後もさらに分かっていくだろう。例えば、鉄や銅が持つ独自の物性という「事物が持つ普遍的な特徴」は全てではないかもしれないが分かっており、その物性を○○とする「○○という普遍的な特徴を持つもの」は、鉄や銅についての「それは何か」という問いに対する答えとなる。

 対して、社会的な事物の本質は、どうだろう。

 価値とは何かも古代ギリシャの頃から探究されてきたにも関わらず、にいまだ定説はない。人類が知り得る事物の範囲内でも、価値の本質は分かっていないのだ。

 価値の本質が分かっていないから、同様に、価値を創造するビジネス、ビジネスを行う企業、ビジネスを核とする経済の本質も分かっていない。経済と並んで社会の重大事である政治の本質も分かっていない。社会で使われる法律など、ルールの本質も分かっていない。社会に生まれる文化の本質も分かっていない。

 もっと言えば、社会の基本的な構成要素とされる人間(生物としての人間ではなく、社会的な存在としての人間)の本質も分かっていないし、そもそも社会の本質も分かっていない。だから、社会的な事物の本質は、まったく分かっていないと言っても過言ではない。

 ならば、価値という事物の観点での自然の事物の本質、すなわち、それぞれの自然の事物ならではの役立たせ方は分かっていないことになる。それでは、社会的に自然の事物の本質を分かっていることにはならない。そのせいか、我々は、戦争などで自然の事物の物性を活用し、人を殺すこともある。

 我々は、社会的には、人類が知り得る事物の範囲内ですら、本質を分かっていないのだ。つまり、厳密に考えなくても、我々はWhatをちゃんと知らないのである。