アニメの珍味 第15回「開拓と未開拓を分けるフロンティア」

●WHAT'S YOUR FUN?

「それで、あなたは何がFUNなの?」

 身体の中まで焦げつかせるような鮮烈な太陽光線の下で、急にそう正面きって聞かれて私はどぎまぎした。質問の言語は英語である。

 1987年のアメリカ──アリゾナの州都フェニックス市。ランチの帰り道、顧客数人との会話の中の出来事だった。

 たまたま北米向けのトライアル装置を設計したばっかりに、私は“生きた添付品”にされてしまった。正月明けからすぐさま、日本の横浜からアメリカの砂漠のど真ん中へと、現地法人もない場所へたった一人で長期出張に来て、現地でのサポート生活をして、すでに4ヶ月が過ぎようとしていた。

 話し相手は、中国系のアメリカ人女性。カレッジを卒業して、実習のために仮配属されているという。

 初対面のあいさつの一環であった。

「FUN……って?」

「つまり……あなたが、何をやったら楽しいと思うかってことよ」

 具体的な目的をともなった仕事上の会話ならともかく、いまだにこういった日常の英会話はまごつく。要するに趣味を聞かれているのか。

「ハハッ、そんなこと聞くなよ。決まってるぜ。もちろん仕事だよなあ」

 すでにこの数ヶ月、納期に追われる中で何度かいっしょに修羅場をくぐってきた顧客先の男性技術者が、いたずら好きそうな目を細めて笑った。日米貿易不均衡が話題になり、アメリカのテレビでは、議会で日本の電化製品がデモのために破壊されるのが放送されていた時期である。

 間髪を入れず、悪意はないのに痛いところを突く、彼一流のいつもの鋭いツッコミには、ノーノーとつぶやきながらも苦笑するしかなかった。

「私はローラースケートよ。それで、あなたは?」

「……そうだなあ、映画を観ることかなあ」

 ふうん? と、鈍い反応があった。

 どんな映画、という会話の発展も特に何もないままに、なんだかその話題は外れて、また別の話題が主流になっていった。

(……映画と言ってもアニメやSFX映画のことなんだよなあ)。

 結局、アメリカに一人で住むことになってアパートが決まったとき、一番最初に何をしたかというと、テレビとビデオデッキを調達して、セッティングすることであった。孤独のあまり気がおかしくなることを避けようと、日本からテレビアニメやビデオアニメを録画して送ってもらうことにしたのだ。日米とも同じNTSC規格だからこそできることである。

 そして、せっかくの機会だからいろいろと現地のビデオを観ようと思った。足は車があるので、かなり遠くのレンタル店へも通うことができる。その気になって探すと、けっこう輸出された日本のアニメや特撮映画があった。

 中には思わぬひろいものもあった。『大空魔竜ガイキング』は、金田伊功作画の回だけをを1時間半に再編集したもの。『マンスターズ』の劇場版とか真賀里文子の人形アニメ『マッド・モンスター・パーティー』など、ドラキュラやフランケンシュタインのコメディ版があって、『怪物くん』的なこういう作品が好きだったことを思い出したり。新聞社に出頭するところから始まる『HUMAN VAPOR』(ガス人間第1号)や怪獣マグマが出て来ない『GORATH』(妖星ゴラス)など、大幅に編集の違う東宝特撮映画の輸出版を見つけて大喜びしたり……。

(……いや……アニメやSFXだと言っても、これじゃさらに説明が難しいか)。

 結局、自分の趣味というものと人間性の関係について、考えこんでしまうような一件であった。

●WHAT'S YOUR SYMBOL?

「それでよ、おまえさんのシンボルはなんだい?」

 また別の日、今度は保守技師が言った。搬入した機器のインスタレーション(設置)のため、電話配線を専門に行う要員と打ち合わせをして、昼飯にホット・チリ・ドッグを食べていたときの会話である。 

 彼は初老と言っても良さそうな年配の男性で、アポロキャップからはもじゃもじゃの白髪がはみ出ている。ジーンズのベルトには、レザーに包まれた工具一式、電話の受話器を立体的に拡大コピーしたような特殊なテスト用の機械をぶら下げているため、遠くからでも彼が何のレスポンシビリティを持ってこの会社で働いているのかが、一目でわかる。

「シンボルって……?」

「うーん。ラッキーだと思ったりして、身につけたりするもののことだな。おれの場合は、ほらこれさ」

 彼はベルトのバックルをつまむと、それが馬蹄の格好をしているのを見せつけてくれた。この土地アリゾナが見せつける風景が、彼のシンボルの意味を物語っているような気がした。

 砂漠とは言っても、サハラ砂漠のような砂ではない。デザートと呼ばれる地域は、枯れ草に覆われ、薄茶色を基調にした草原である。強烈な太陽光線のため摂氏42度を超える気温だが、空気が極度に乾燥していて、直射を避ければ実は日本の梅雨や夏ほどの不快感はない。そのデザートを開拓した都市部は、道路の車線も広く取られて機能的で、土地はあくまで平坦。3階建て以上の家屋がないため空は広く、地平線がいつもどこかに感じられる。大陸というのは、そういうところだ。日本人が西部劇の世界を描くと、どこか画面の一部に山を描いてしまうが、あれはまったくのウソだ。画面の半分は空で、地平線がいつもどこかに隠れて横切ったようなレイアウトになるはずなのだ。

 彼の先祖もどこか遠いところから移民してきて、こんな過酷な場所を開拓し、碁盤の目のようなこの都市をつくった。馬蹄は、そのアイデンティティとして、彼の子や孫にも残っていくものなのだろう。

●フロンティアを拡大するもの

 日本に戻って15年。夏が来て、炎天下の直射日光を浴びながら歩くとき、アリゾナの生活を思い出すことがある。かの地では、あんな風にひとりひとりがアイデンティティを主張し、あいさつの中で確認しあうことで移民同士が手をたずさえ開拓をしていったのだろう。歴史の教科書なんて読まなくても、その土地に2本の足で立てばわかることは多い。

 フロンティアというのは未開の地のことではなく、開拓と未開拓の境界線を指す。それを拡大していった人たちの精神は、ごくささいな日常にも形となって人に宿り、立ち居振る舞いからにじみ出てくるものだ。

 昨年の夏、あるアニメを見て急に心臓に直撃を受けた感じがした。自分のFUNは何なのか。シンボルは何か。生活の糧は何か。そういうことを、まるで生きた人間のように目の前に立って主張するかのような映像に出会って、心が揺らいだのである。

 それは、『カウボーイビバップ天国の扉』のタイトルバック──沖浦啓之の絵コンテ・演出によるモノクロのアニメだった。表面的には、ごく市井の人びとの生活を点描しただけのものである。アメリカ色を強く感じる世界で、とは言ってもフェニックスのような西部の方ではなく、もっと都会のニューヨークをモデルにしたものだろう。その描写力には舌を巻いた。道行く人を偶然にとらえたショットであるかのように擬態した映像の積み重ねで構成されているが、その中に臨場感のようなものが濃く醸し出されているのである。

 靴がリズムを取るとき、はみ出た筋肉がずしりと動く。その動きで、靴の主がどういう人間像なのか想像できる。ワイングラスでリズムを取る男の指、たばこの煙をを無表情に吹き出す初老の女性、ジョギングをする夫婦のたるんだ贅肉、イエローキャブであくびをする男の倦怠感、太った警官に事故の説明をする男の必死のジェスチャー、靴みがきをする男の鮮やかな手つき等々、音楽に乗せて次々と重ねられる短い動きに、非常に高いレベルの生活感が込められているのである。ただの通行人なのに、それぞれの人の背負った人生のようなものが、かいま見えてくる。

 これを写実的なものとだけとらえるのは誤りであろう。実景の前でカメラを回して原動画に引き写しても、絶対にこうは見えない。アニメーターが想像力で、架空の人たちが行動するとき全身から放つ主張をすくいとって、絵に転換して再描写するというプロセスがあるからこそ、実感が生まれる。そしてその実感は、絵を描く者が人や世界と対峙してきたとき、何をFUNと思ったかの累積であり、シンボルであり、主張なのである。こういった主張を持って描ける──そういう屹立した人びとが、またフロンティアを拡げることができるのだろう。

 夏のまばゆい光線の中で、アメリカ生活を思い出しながら、ふとアニメの開拓と未開拓の境界線にあるフロンティアのことを考える……。

【2002年7月27日脱稿】初出:「月刊アニメージュ」(徳間書店)