◆幕末、腰に刀を差した日本人たちが船を操縦し、蒸気機関を作った事実
「咸臨丸」(かんりんまる)という船の名前を知っている人は多いでしょう。幕末に勝海舟が指揮して福沢諭吉なども乗船して、日本の船としてはじめて太平洋を渡ってアメリカにいったことで有名です。幕末に白人が頻繁に日本に開国を迫るようになって、江戸幕府はオランダから数隻の練習船や軍艦を購入します。そのうちの一隻が咸臨丸、その前にオランダから譲り受けたのが観光丸(スーヌビング号)でした。
このスーヌビング号には幕臣の永井玄蕃頭、武士の勝麟太郎(後の勝海舟)らがオランダ技師から訓練を受け、ついに日本人だけの操舵で長崎から江戸に回航しました。当時のアジア情勢からみると、アジア人がヨーロッパの船を操舵できることすら驚きだったのですが、さらにアジア人が自力で2000キロ近い海路を乗り切るなど考えられないことでした。
当時のオランダ技師のノートに「浴衣を着て腰に刀を差した日本人が、甲板で平気で小便をするかと思ったら、スパナを片手にエンジンに取り組むのにはびっくりした」という趣旨のことが書かれています。日本以外のアジア人なら、機械を怖がって遠巻きにしているのに比べて、日本人は特別だったのです。
このような日本人の気質は、スーヌビング号だけではありませんでした。
同じ幕末に、イギリスからできたばかりの蒸気機関の設計図が日本に来たのですが、それを見て日本の技術者が苦心惨憺して蒸気機関を作りました。設計図がわかるだけで大変なのですが、制作するとなると、鉄の材料を削ったり変形させたりしなければなりませんし、可動部分には特別な材料も必要です。すでに18世紀の産業革命のときに、機械の加工や材料の開発を終えいていたので、イギリスで蒸気機関が誕生したのですが、何もない日本では普通に考えるととても無理だったのです。
でも、日本人はここで才能を発揮して、とにかく類似の機械を作り、設計出力が12馬力のところ、その6分の1の2馬力の蒸気機関を作り上げたのです。不十分な点は当然ですが、まさか設計図だけで工業力もない日本で蒸気機関が作られたというだけで驚きです。
数学者の関考和、工学者の平賀源内、医学者の杉田玄白など、東洋諸国が深い眠りについている時に、日本人で世界のトップレベルの学者が誕生したからでもあるでしょう。