アクティブラーニングは「3つの構造的限界」によって学力が育たないようになっている(2/3):「評価の限界」

 新指導要領(案)から「アクティブラーニング」が消えた。歓迎したい。しかし、得体の知れないその言葉=記号が消えた代わりに、記号の「意味」が剥き出しになって浮き上がることになった。それは、「対話」である。「アクティブラーニングの構造的欠陥」の続きを書く前に、まずはこのあたりの意味を、まとめておく必要がある。

「対話」が現行指導要領の3.3倍

 2017年2月14日、学習指導要領(幼・小・中)の改訂案が公開された。「アクティブラーニング」という言葉が完全に消え、「主体的・対話的で深い学び」に完全統一された。

 これからは、「アクティブ」ではなく「主体的・対話的で深い」という修飾語によって、「学び=ラーニング」が方向づけられることになる。

 アクティブラーニングを批判し続けてきた身としては、アクティブラーニングという言葉が消えたこと自体は歓迎したい。

 翌15日の読売新聞にはこう書いてあった。

【AL(アクティブラーニング)関連の指導書などを約20冊※発行する東洋館出版社(東京)は、「AL」という言葉を今後使わない方針で、「記述の手直しも必要になる」と語った】(※『「アクティブ・ラーニング」を考える』など)

 現場教師が従うのはあくまでも学習指導要領であって、中教審諮問中教審答申ではない。指導要領から消えた「アクティブラーニング」という言葉は、現場からも、今後すーっと消えていくことになるだろう。

 しかし、だからといって喜んでばかりもいられない。

 なぜなら、「主体的・対話的で深い」という修飾語は、「アクティブ」と違って、具体的な動詞を含んでいるからだ。

 それは、「対話」である。

「主体的」も「深い」も「アクティブ」も抽象的イメージにすぎないため、現場教師を動かすほどの力は持たない。もちろん「主体的」という言葉はこれまでもずっと現場教師を動かしてはきたが、「これまで」以上の動きをもたらすような力は持たない。

 ところが、「対話」は別だ。

 具体的な行動を意味する言葉である。

 今回の指導要領は、「対話をさせよ!」と、明言しているのだ。アクティブラーニングという言葉が消えた分だけ、それが浮き彫りになった。

 それは同時に、「対話型でない授業をさせるな!」という意味でもある。少なくとも、現場教師はそう受け止める。

 意外に思うかもしれないが、現行(平成20年告示)の小学校学習指導要領には、「対話」という言葉は一度も出てこない(中学校では1回だけ出てくる)。次の表をごらんいただきたい。

学習指導要領の中に出てくる「対話」「話し合い(話し合う)」という言葉の数の新旧比較
*うち「主体的・対話的で深い学び」としてまとまって出てくるのが18回(小学校)、16回(中学校)

 小中をまとめて大雑把に計算すれば、(34+29)÷(12+7)≒3.3となる。

 つまり、単純計算でも3.3倍だ。

 むろん、単に数が多いだけではない。

 改訂案では、最も重要な冒頭の「総則」に「主体的・対話的で深い学び」が登場。そして、「主体的・対話的で深い学び」という言葉のまとまりが、小学校で18回、中学校で16回も出てくるのだ。

 これにより、学校における研究授業では、校内・校外を問わず、「対話的な授業・対話型の授業」が行われるようになる。

 それが“最先端の授業”“模範的な授業”であるとして、研究・研修に招聘された指導主事あるいは教育学部教授たちがその価値を強調する。

 それを聞いた校長・教頭・主幹教諭は、むろんそれに従う。一般の教員たちもまた、むろんそれに従う。

 そしていつしか現場は、「対話型でない授業は悪である」という空気に包まれる。私はもともと公立小学校教師だったから、学校現場におけるこうした空気の支配力をよく知っている。

 こうして、これからの授業はこれまで以上に子ども同士が話し合ってばかりの授業になるだろう。

 なお、中教審答申には、申し訳程度に次のような文言も書かれているが、こんな言葉は空気の支配力の前には何の力も持たない。

「学習活動を子供の自主性のみに委ね、学習成果につながらない「活動あって学びなし」と批判される授業に陥ったり(…)という恐れも指摘されている」(48ページ)。

「(…)討論や対話といった学習活動を行ったりすることのみが「主体的・対話的で深い学び」ではない点に留意が必要である」(53ページ)。

 批判される授業になるかもよ。

 討論や対話だけじゃないよ。

 こんな表現は、都合よく無視されるだけである。

アクティブラーニング――評価の限界

 さて、ここでいよいよ、「アクティブラーニング――3つの構造的限界」の続きに入ることにする。

 その限界とは、次の3つであった。

【1】時間の限界――時間的制約の影響を強く受ける

【2】評価の限界――個別の評価がきわめて難しくなる

【3】知的な限界――その集団の知的能力の枠を超えられない/教師の知的能力が衰える

このうち【1】時間の限界は、既にこちらに書いた。

今回は、【2】評価の限界について述べる。

 批判ばかり書いていると必ず出てくるのが、「じゃあお前はどうやっているんだ? 対案を出せ」という批判である。

 そこで、まずは、私がどのように「評価」しているかを、明示しておきたい。

★以下(有料部分)の内容は……

・私 福嶋が、小学校教師時代も国語塾を開いてからも一貫して行っている評価法はこれだ!

・評価と評定の違いとは?

・規準と基準の違いとは?

・なぜアクティブラーニングは評価に限界があるのか?

・評価の難しさを解消するために動き出した企業あり!

・アクティブラーニング(の視点)による授業を救うための手段とは?

★今回のmine有料部分は、福嶋隆史の有料メルマガ【ふくしま式で文学・評論を読み解く!】No.14(2017/2/22配信号)にも掲載しています。2017/2/28までの間に有料メルマガに登録すれば、2月配信号は無料で読めます。バックナンバー販売も行っています。

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