アクティブラーニングは「3つの構造的限界」によって学力が育たないようになっている(1/3):「時間の限界」

アクティブラーニング「3つの限界」の筆頭は、「時間の限界」である。ここでは、その1点に絞って述べていく。

 なお、この記事は、2016.10.5にアップした【アクティブラーニングは「3つの構造的限界」によって学力が育たないようになっている(序)】の続きとなる文章である。まだこれをお読みでない方は、まずそちらをお読みいただきたい(全文を無料で公開中)。

 さて、その中で私は、次の内容を示した。

◆アクティブラーニング――3つの構造的限界

【1】時間の限界――時間的制約の影響を強く受ける

【2】評価の限界――個別の評価がきわめて難しくなる

【3】知的な限界――その集団の知的能力の枠を超えられない/教師の知的能力が衰える

 今回の記事は、その1番目を扱う。

【1】時間の限界――時間的制約の影響を強く受ける

 私は90年代後半、東京都(区部)にあるフリースクールで、不定期にボランティアをしていた。そこには、小中高あるいはその少し上も含めた子たち(若者たち)が“在籍”していた。

 在籍とは言っても、そのフリースクールはとにかく自由であり、来ても来なくてもいい。いつ来て、いつ帰ってもいい。来てから何をしてもいい。何もしなくてもいい。すべてが、子どもの主体性・自主性に任されていた。

 ボランティアも主宰者も、大人たちはその子どもの主体性に応える形で、アドバイスをしたり、一緒に活動して楽しんだりしていた。

 私も、そうしていた。

 一般に「不登校児」という名前が持つイメージとは裏腹に、子どもたちの表情はみな明るく、生き生きとしていた。

 素晴らしい場だと思った。

 今でも、そう思っている。

 それは、ひとことで言うならば、「徹底」していたからだ。

 とにかく、徹底的に自由だった。

 反社会的・非倫理的な行為を除けば、何をしてもよかった。

 さて、この「自由」とは、何における自由なのだろうか。

 その最大の要素は、「時間」である。時間的自由。自分の時間を、自分の意志でコントロールできること。これが、自由だ。

「スクール」とは言うものの、そのフリースクールにはもちろん「時間割」がなかった。ちまたには、かなりきっちりと時間割が決められている「フリー」スクールもけっこうある中で、この時間的自由の徹底こそが、そのフリースクールの価値であったと言える。

 文字どおり、「フリー」だったということだ。

 さて、それでは、フリーのつかないスクールのほうはどうなのか。

「フリースクール(自由な学校)」という言葉の反対語は、「自由ではない学校」である。それはつまり、「学校」のことである。

 学校には種々の束縛がある。その束縛の最たるものが、時間割である。自主性・主体性を徹底するために最も大切な時間的自由が、学校ではハードに制約されている。

 にもかかわらず、アクティブラーニングは、その制約の中で自主性・主体性を要求する。限られた時間割の中で、自主性を要求する。束縛しておきながら、自由にせよと言う。

 ここに、明らかな矛盾がある。

 自主性とは、誰に要求されるでもなく、自らが、自らの意志で、自ら決めた目的のために行動する、そのありようを指す。それを、教師によって「要求される」。教師の決めた時間割という、狭い範囲の内側で。

 これが、アクティブラーニングの本質的にして決定的な矛盾である。

 もう少し具体的に述べよう。

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