2019年12月17日、大学入学共通テストにおける記述式設問導入の「見送り」が発表された。
私は国語教育が専門なので、もっぱら国語について言及する。
国語記述設問の見送りが決まり、「やれやれ、ようやくだな」という安堵を感じている。
私は、塾の現場で小中高生に指導を行うとともに多くの問題集を作成している立場から、50万人超を対象とした公平な記述採点がいかに困難を極めるかについて、具体的に訴えてきた(自社サイト版/まぐまぐニュース版)。
要は、「記述反対派」である。
ただ、同じ意見であるはずの記述反対派の主張の中に、一部引っかかる点があるのも事実だ。
今回は、あえてそこを書いておきたい。次の3点だ。
1)「自由な思考、自由な記述こそが記述である!」と強調しすぎるのは危険だ
2)「共通テストをやめてセンター試験に戻せば万事OK」。それは本当か?
3)「記述式見送りで受験生は振り回された」。振り回されなければいいのでは?
1)「自由な思考、自由な記述こそが記述である!」と強調しすぎるのは危険だ
共通テスト試行調査の設問に対する批判でよく目にするのが、「もっと自由に書かせる記述じゃないとダメじゃないか」「こんな問題で思考力を測れるのか」という主張である。たとえば次の記事がその例だ。
まるで誘導…記述式問題「自由な思考」に逆行するガチガチ解答条件に中止を求める声(AERA dot. 2019年11月30日)
私はこの主張には危惧を感じる。
自由自由と言うが、子どもたちに400字詰原稿用紙を2,3枚与えて「さあ自由に書け」と言っても、「自由に」書ける子は非常に少ない。むしろ、思考が「ガチガチ」に固まってしまう子のほうが多い。むしろ、文章の型なり内容なりをある程度「限定」すると、逆に思考が働き出す。
100字前後の読解記述であっても同様だ。あらかじめ文章に用意された「傍線部」も「条件」の1つであるわけだが、たとえば傍線を引かずに文章全体に対する問いを課すと、手が止まる(思考が止まる)子は急増する。傍線部という「限定」のおかげで、思考は働き出す。
結局、ある程度の条件を付すこと、すなわち「限定」によってこそ、思考は活性化するわけだ。
だから、「条件をつけることそのもの」を批判し、もっと自由にさせろ!と叫ぶのは、やりすぎなのである。
「条件の質」について問題にするのなら、よい。1つだけ例示すると、2018年11月に行われた「平成30年度試行調査」の第1問の問3で、2文目を「それが理解できるのは」で書き始めろ、という指示があった。これはよろしくなかった。「しかし」という書き出しのほうが自然な文章になるケースがあり、それを封じてしまっている。
そういった「質」について問題視するならよいが、とにかく自由に、という手放しのリベラリズムのごとき主張は、眉をひそめざるを得ない。
今、「質」と書いたが、設問そのものの質についても、誤解があるようだ。
先に挙げたAERA dot.の記事の中に、高校生らの声明として「まったく『思考力・表現力』を測れるものではなく、何ら導入の価値がない」という文言が見られるが、本当だろうか。
何度か行われてきた試行調査の設問について、その全てを「こんな問いでは思考力を測れない!」と断言するのは、やや暴論の印象がある。
たとえば、2017年5月16日に公表された問題については、私は次のような分析記事を既にアップしている。
問題例1
小問1 一石二鳥を「言いかえる」設問。同等関係整理力が求められている。
小問2 ガイドラインと提案書を「くらべる」設問。対比関係整理力が求められている。
小問3 父と姉の言い分を「くらべる」設問。対比関係整理力が求められている。
小問4 主張から根拠へ(または根拠から主張へ)と「たどる」設問。因果関係整理力が求められている。
このように、求められている技能が非常に分かりやすい。(中略)これは、間違いなく歓迎すべきことだ。
(「言いかえる」「くらべる」「たどる」についてはこちら)
また、先に挙げた「平成30年度試行調査」第1問の、問1は明確に「言いかえる」設問であり、問2は明確に「たどる」設問であり……というように、やはり求められている言語技能(思考技能)が明確である。
そういう意味では、その問い自体の質を否定する必要はない。
否定すべきは、あくまでも採点の「質」のほうだということを、あらためてここで確認しておきたいわけである。
まあたしかに、問いに付された「条件文」の量は異常であり、解いていてイラつくし、不愉快である。
しかし、読解設問に「唯一の解答」があるのは当然のことだ。自由自由と言いすぎると、その当然の前提も揺らいでしまう。
そもそも読解において大切なのは、「自己表現」ではなく「他者理解」である。
自由を求めるのであれば、「自己表現における自由」ではなく、「他者理解(=他者の文章の再構成)における自由」を求めればよい。「この答えは、こういう表現で言いかえることもできるのではないか」というように。それは、言葉の幅の広狭に対する注文だ。読解で許される「自由」は、そこまでである。
そのあたりを勘違いした批判は、そもそも「読解テスト」そのものを否定していることになるので、くれぐれも注意しなければならない。
2)「共通テストをやめてセンター試験に戻せば万事OK」。それは本当か?
教育に一家言もった人たちが、ウェブ上でこうした論を展開しているのをよく見る。枚挙にいとまがないので例は挙げないでおくが、ちょっと注意深く問題を追ってきた人であれば、きっと目にしたことがあるだろう。というより、これをお読みのあなたも、実はそうお考えなのではないか。
たしかに、紅野謙介氏らが述べているように、たとえ記述設問がなくなったとしても共通テストには問題が残っている。
たとえば、上記リンク先で「「言語活動の場」を仮想した話題設定・複数資料の提示・会話文の挿入など」と書かれているあたりだ。通常の文章(連続型テクスト)ではない、非連続型テクストと呼ばれる類の「テクスト」である。
これ、私も本当に嫌いだ。ごちゃごちゃしている。飾っているだけだ。もっとシンプルな問題を使っても、同じ思考力を測ることはできる。
その意味で、共通テストはまだまだ変えていく要素が残っている。
しかし、だからといって、「シンプルな文章と問いだけで構成されていた従来のセンター試験に戻せばよい」と主張するのは、ちょっと踏みとどまってほしいところである。
これまでのセンター試験にも、悪問はたくさんあった。
たとえば、2012年に上梓した『国語が子どもをダメにする』(福嶋隆史著・中公新書ラクレ)の中で、私は、2011年のセンター試験小説読解の本文・設問の一部を引用し、その悪問っぷりを詳細に分析している(ここではその内容は省くが)。
マーク式設問が陥りやすい1つの見逃せない欠点は、「測りたい思考力・思考技能が備わっていなくても正解できる選択肢群」を作ってしまうことができる点にある。
たとえば、設問文の上では「――部は、なぜですか」と理由を問うており因果関係整理力を明確に求めているにもかかわらず、選択肢を選別するプロセスでその因果関係整理力を発揮しなくても済んでしまう、といったパターンだ。
こうした点で、真に思考力を測るテストをマーク式で作成することは難しく、たとえ歴史あるセンター試験であっても、まだまだ改善点が多々残っているわけだ。
だから、単純に「センター試験に戻せ」と主張するのは、避けるべきなのである。
3)「記述式見送りで受験生は振り回された」。振り回されなければいいのでは?
読売新聞朝刊、2019年12月18日。記述式見送りが発表された翌日の紙面(30面)に、こいう記事があった。
記事の一部を引用する。
「散々振り回されてきたので怒りを覚える。生徒の時間を返してほしい」
東京都内の中堅私立高校で2年生の担任をする女性教諭(29)はやり場のない憤りを吐露した。
大学入学共通テストでの記述式問題の導入は現在の高校2年生が対象で、2021年1月からの予定だった。それに向け、論述の内容を充実させるなど授業に多くの手間をかけてきた。
もちろん、気持ちは分かる。分かるが、「生徒の時間を返してほしい」とはどういうことか。この先生が行ってきた「論述の内容を充実させる」授業は、その程度のものだったのか。
真に思考力を高める授業というのは、記述か選択かなどという「入試の出題形式」によって左右されるものではないはずだ。
私は、自らの国語専門塾における授業の内容が、今般の「共通テスト記述騒動」に左右されたことなど全くない。皆無だ。ずーっと、自らの信念に基づく授業を、変わらず行っている。
教える側がそんな形式の変更にいちいち動揺しているから、生徒も動揺するのだ。
私は先日、高校生らにこう言った。
「みなさんは、こんな騒動になんら影響されず、いつもどおりに論理的思考力を磨く勉強を続けていけばいいんです。思考力さえ確かならば、記述だろうと選択だろうと、何ら問題なくクリアできますよ」
読売新聞の先の記事は、次のように続いている。
一方、都内の私立女子高校の副校長は「国立大学の2次試験などでは記述力が問われる。行ってきた指導は無駄にはならないだろう」と述べた。
そう、無駄になどなるはずがない。
ただ、この副校長の言い分にも、問題は隠されている。
それは、「国立大学の2次試験などでは記述力が問われる」という部分。
これ、「あくまでも入試ありきで勉強している」という実状の現れだ。
立ち止まって考えてみてほしい。
生徒は、入試のために勉強しているのか? 目標は合格なのか?
たしかにそれも目標だろうが、それはあくまでも通過点だ。
大学合格とは、合格した先にある大学の授業で、ゼミで、より質の高い学びを、より質の高い研究を成し遂げていくための入口に過ぎない。
そのときに求められるのが、高い思考力である。
その思考力を身につけるためにこそ、高校で、質の高い国語の勉強をするのだ。
入試に「振り回されている」ような生徒は、大学に合格した時点で満足してしまい(あるいは疲れ切ってしまい)、その先の学問の機会を放棄するだろう。
入試のためではなく、学問のためにこそ、学ぶ。
この常識を今こそ訴えるべきなのに、それを最も声高に訴えるべき立場の人が、こんなことを言っている。
【文部科学相の諮問機関「中央教育審議会」の会長として記述式問題の導入など高大接続改革の議論を主導した安西祐一郎・元慶応義塾長】、その人である。
「記述式見送り、日本は「教育鎖国」状態に」と題された2019年12月17日の朝日新聞記事から、少し引いておく。
論旨明確に考え、相手の立場を考慮して、論旨明確に表現する力、世界の中で生きていく日本の若い世代には、この力が決定的に必要だ。しかし現実には、全国の高校生にこの力が身についているとはとても思えない。高校教育がこの力の養成を置き去りにしてきたのは大学入試と無関係だからだ。
「大学入試に無関係だから、現場は思考力・表現力の育成を置き去りにしてきた。したがって、大学入試で記述式を課すことをやめるべきではなかったのだ」と、そういう意味だろう。後半は本文に書かれていないが、安西氏は今回の記述見送りを真っ向批判している立場なので、当然そう読んでよい。
また、こうも述べている。
大事なことは全国津々浦々の高校生、大学生がこれからの時代に必要な力を身につけることだが、今回の入試改革の導入延期は、日本の教育では当分その必要はない、と宣言したことに等しい。
え? そうなの? 目が点である。
「入試で問わないことは、授業でも扱われない」と、断定していることになる。
たしかにそういう現状はあるにせよ、それを、中教審のトップかつ慶應義塾のトップだった人間が、堂々と言ってよいのか?
そういう立場の人間は、むしろ、「入試で問われないことも高校の授業で扱ってもらいたい。そういう授業で学んできた人間をこそ、私たち大学は歓迎する」などと発言すべきではないのか。
最後に1つ。
中教審は当然、学習指導要領の改訂も主導するわけだが、今般の改訂で表面化した「アクティブラーニング」は、どうなのか。
これ、思考力・判断力・表現力を高める目的で考え出された方向性なわけだが、私は、アクティブラーニングはそういう能力の向上に逆行するやり方だと思う。
これまで私は各所でアクティブラーニングを批判してきたので、詳しくはそれをごらんいただきたい(たとえばこちらやこちら)。
大学入学共通テストに記述を入れることよりも重要なのは、学習指導要領の質を高めて授業現場を直接的に動かすことではなかったのか。
入試よりも授業。
この当たり前の構造を、安西氏は忘れているのである。