女王様のご生還 VOL.203 中村うさぎ

私はアニメ好きだが、そんな私でもどうしても我慢ならないほど不快な作品はある。

それは主に作品中での「女性の描かれ方」だ。

よく世間で批判されるむやみやたらな巨乳や無意味なセクシー描写などは許容範囲内だが、男性の幻想に都合よく合わせた類型的な「かわいい女」や「天使みたいな女」が登場すると途端に全身がムズムズしてくる。

これは男性目線の作品に限らず、女性目線のいわゆる「乙女ゲーム」的な逆ハーレム作品についても同様で、女に都合のいいイケメンが壁ドンとかする作品は気持ち悪くて一切観ない。



が、これはあくまで私の個人的な好みの問題である。

「女ってこういうもんだろ」「男はこうあるべきよね」といった決めつけには辟易するが、嫌なら観なければいいだけの話で、その類の作品を楽しむ人々が存在するのならどうぞご自由に、というスタンスだ。

この世に私の意に染まぬものがあるのは仕方ない。

誰かの「快」が私の「不快」であるように、私の「快」もまた誰かの「不快」なのだ。

たとえば私はシリアルキラーや猟奇殺人物が大好きだけど、友人の中には血を見るのが怖くて嫌いという人もいる。

このように千差万別の趣味嗜好があるからこそ、あらゆる表現物が生き生きと枝葉を伸ばして咲き誇ってきた芸術の歴史が存在するんじゃないか。

「これは倫理的に好ましくないから排除すべし」などという判断を表現物に適用し、多様な趣味嗜好を規制しようとすると、芸術や文化は平板で退屈な代物に成り果てる。

「表現規制」は芸術の死を意味するのだ。



ミケランジェロのダビデ像は最初、股間の男性器が剥き出しであった。

ミケランジェロ的にはそれが美しいと思ったからだろう(ゲイだしね)。

ところが、男性器を露わにした彫像は不謹慎だという理由で、カトリック教会はダビデ像の股間をイチジクの葉で隠すよう指示した。

しかし、そもそも人類の始祖アダムがエデンの園から追放されたのは、己の股間を恥じてイチジクの葉で隠したのを神に見咎められたせいではないか。

なのに神の意志を代行するはずのカトリック教会がダビデ像の男性器をイチジクの葉で隠すよう指示するとは、なかなか皮肉な話で笑わずにいられない。

60年代には、ビートルズのジョン・レノンが「俺たちはキリストより有名だ」と発言したのを「神に対する不敬」と受け止め、アメリカ国内でビートルズのレコードを燃やすという運動があった。

ビートルズに腹を立てて自分の家のレコードを捨てるのは個人の自由だが、大々的に呼びかけて広場で燃やすという示威行為は「信仰」の名のもとの弾圧行為だ。

ジョン・レノンがどういうつもりで先の発言をしたのかは定かではないが、彼が「善きキリスト教徒」じゃなかったとしても、それは信教の自由であって人々が罰するような事ではなかろう。



キリスト教的価値観を持たない日本人の目にはこのような弾圧が愚かしく滑稽に映るだろうが、これは宗教の問題に限った事ではない。

ひとつの価値観を「正義」と掲げて他の価値観を排斥する行為は、おしなべて不合理であり独善的なのである。

「不謹慎」「政治的に正しくない」「教育に悪い」といった理由で表現物を規制する人々は、ダビデ像に股間を隠させたカトリック教会やビートルズのレコードを広場で燃やしたアメリカのキリスト教徒たちとなんら違いはない。

自分の価値観を「唯一絶対の正義」と思い込んでいる狂信者だ。

宗教や思想や信念を持つのは自由だが、それを他者にまで押しつける傲慢さが問題なのである。

「表現の規制」はいずれ「言論の規制」にも繋がり、思想や宗教の自由を認めない全体主義にたやすく発展する。

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