国境をまたぐ現代の“赤ひげ”奮闘記/読んで分かる「カンブリア宮殿」



医師不足に悩む地方を救え

長野県の松代地区。そこで今、住民の健康を守る砦となっているのが、長野松代総合病院だ。

眼科で一人の患者さんに出会った。ブドウ園を営んでいる栗原さん。70歳を越えて目が見えにくくなったという。栗原さんの目は白内障にかかっていた。

白内障は、カメラでいうとレンズにあたる水晶体が、老化によって白く濁り、見えにくくなるもの。ぼんやりするだけでなく、症状が進むと、色の感じ方も変化してしまう。歳とともにかかる可能性が高くなり、70代ではおよそ9割の人がなるというデータも。手術しなければ失明の恐れもある。

しかし、この病院の眼科にはある問題があった。非常勤の医師しかいないため、外来は週に3日のみ。基本的には、検査と診察だけだ。

地方では眼科医不足が深刻化している。日本眼科学会によると、人口10万人あたりの眼科医数は、1位東京都の17.99人に対して、37位の長野県は8.17人と半分以下。都会ではすぐに受けられる手術もなかなか受けることができないのだ。

そこに現れたフリーの眼科医、服部匡志。月に1度やってきて全ての手術を受け持つ。

手術室の前には多くの患者が。みな、服部が来る日を待っていたのだ。2か月待ったという栗原さんの手術がいよいよ始まる。

白内障の手術は、黒眼と白眼の境に小さな穴をあけ、そこに細い器具を挿入して行なう。超音波で水晶体を砕いて、吸引して取り除き、その後、人工のレンズを入れる。

栗原さんの白内障はかなり進行していたが、男はことも無げに手を動かしていく。あっと言う間に終了。服部は2日間で22人もの目を手術していた。

別の日、服部は静岡県・富士市の聖隷富士病院へ。ここで1日中手術。別の日は福島県の郡山に。ここでも1日中手術。『カンブリア宮殿』が取材した2週間で、長野を皮切りに九州、東北など、全国9カ所の病院で手術をこなしていた。

身ひとつで眼科医不足の地方をまわる服部は、「こういう地方にもたくさんの患者さんがいる。そういう人たちにいい医療を提供したい。提供することでハッピーになっていく」と、その思いを語る。



「神の手」と呼ばれて――服部が招かれるもうひとつの理由

佐賀県武雄市の中心部にある『北川眼科』がこの日の服部の仕事場だ。服部が地方から引く手あまたなのは、医師不足だけではなく、もうひとつ理由があった。

 その患者は糖尿病を患っていた。糖尿病は予備軍も含めると2000万人以上いると言われる国民病。進行すると目の奥に膜が張ってしまい、失明の恐れもある。カメラでいうとフィルムにあたる目の網膜。糖尿病が進むと、この網膜などから出血する。血液のタンパク質が固まって膜を張ってしまうのだ。これを取り除くには高度な手術が必要になる。

実は服部、目の奥の手術が得意中の得意。その最大の武器は内視鏡。服部はこの内視鏡を使った眼科の手術で、世界トップレベルの腕を持っているのだ。

手術はモニターを見ながら。極小のカッターで、ガムのように癒着した膜を、慎重に剥がしていく。そして剥がした膜を吸い取るのだ。網膜を傷つけないよう、わずかな誤差も許されない。

最後に残った膜を吸引。難手術も1時間程で終了。こうした腕があるからこそ、全国の病院が服部を待ち望んでいるのだ。

「神の手ですよ」と賞賛する患者に、服部は「神の手じゃない、人間の手だよ」と応じた。



月の半分はベトナムへ

服部がこんな生活をしているのには理由があった。

ベトナム最大の都市、ホーチミンから車で3時間。服部がやって来たのは、地方にある病院。この病院には眼科はないというが、そこには目を患った人たちが120人も。ほとんどが白内障だ。みな、服部が来るのを待ち望んでいた。

実は服部、ひと月のうち2週間は日本各地の病院で働き、その稼いだ金で残りの2週間をベトナムでの医療活動にあてているのだ。

ベトナムでは白内障の手術はおよそ5万円。服部は費用を払えない貧しい人々に、無償で手術をしている。彼らは皆、本来ならば手術を受けられず、失明の恐れもあった患者ばかり。服部は、この無償の医療活動を14年間続けているのだ。

「金持ちだけ治療して貧しい人はほったらかし。そういう人たちに手を差し伸べなければ意味がない」という服部に、村上龍が素朴な質問をした。

「アメリカ人の医師に『アメリカで開業したら何億円も稼げる』と言われたそうですね。そういったことにはまったく魅力を感じない?」

「そこそこ生活していければいいじゃないですか、余ったお金で失明する人が助かるなら。僕も患者さんから幸せをシェアさせてもらっている。それが今の僕の原動力になっている」

服部がこれまでに救った患者は、日本とベトナムを合わせて4万5千人以上にのぼる。



父親の遺言、ベトナムとの出会い

服部が医師を志すようになったきっかけは、病院で耳にした「心ない言葉」だった。

服部は1964年、大阪に生まれる。父親は市役所に勤務する公務員。厳格な父だったという。そんな父親が、末期がんだと分かったのは、服部が中学3年の時。入院生活が始まった。

ある日、ナースステーションの横を歩いていると、医師と看護師が、父のことを話しているのが聞こえてきた。「あの患者は口うるさい奴だ。末期がんで助かる見込みは薄いのに……」。

「ショックを受けて、腹立たしい思い、悔しい思いがあって、患者とその家族の立場に立った医療ができる医師になりたいなと思った」

程なくして亡くなった父親の遺言は「人のために生きろ」だった。高校生になった服部は、それを胸に刻み、医師になることを決意。母親の懸命の支えもあって、4浪のすえ京都府立医大へ入学。眼科医を目指すことになった。

卒業後、病院の勤務医として働きながら腕を磨いていった服部に、やがて転機が訪れる。それは2001年、学会で出会った、ベトナム人医師の一言だった。

「多くの貧しい患者が、手術を受けられず失明している。なんとか助けてほしい」

そう懇願された服部は、ベトナムに向かった。

「3カ月のつもりだったのが、すごい数の患者さんがいて、しかも今、手術しないと助からない人がたくさんいて」

それを見た服部が思い出したのは、あの亡き父親の言葉。「人のために生きたい」と、勤めていた日本の病院をやめた。以来、フリーの眼科医として日本で稼ぎ、ベトナムで無償の医療活動を14年続けている。

ベトナムに病院を建設。持続可能なシステムをつくる

そんな服部はいまやベトナムでも有名人。メディアに取材されることもたびたびだ。2014年には、外国人に送られる最高位の勲章も授けられた。すっかり現地に溶け込んだ服部は今、新たな試みに動き出していた。

その舞台がハノイ市内にあるビル。服部が2年前に作った病院だ。その名も『日本国際眼科病院』。最新の機材を導入した、眼科の専門病院だ。服部に賛同した『メガネの三城』が出資。日本レベルの医療を提供できるようになった。

患者を見てみると。インドネシアから来た実業家、ベトナム政府の高官……と、ほとんどが富裕層。「これまで、高度な眼科医療は、海外に行かないと受けられませんでした。ここができて、助かっています」と、政府の高官は言う。

実はこの病院はこれまでと違って有料だ。ずっと無償の医療を続けてきた服部がなぜ、こんな病院をつくったのか。

「ここで得た利益の一部を貧しい人の資金にする。僕がいなくなっても、このシステムが残って、貧しい人を助けられる仕組みができていれば、後世にも受け継がれていくから」

ハノイから車で2時間ほどの、貧しい村。役場の職員がお年寄りたちに、あるものを渡して行く。渡された手紙には『日本国際眼科病院』の文字が。

実は服部、この村の白内障の老人たちを病院に招待し、無償で手術することにしたのだ。

4月中旬。村のお年寄りたちが、続々と病院に。1週間で約60人を手術した。オープンから2年。ここで得た利益で、貧しい人たちに無償で手術をする。服部が描いた構想が、ようやく実現したのだ。持続可能な仕組み作りが動き始めた。

医師を育てる――なぜ人材育成が必要なのか

この日、服部がやってきたのは、岩手県・盛岡にある谷藤眼科医院。

いつものように着替えるが、手術を始めたのは、この病院の谷藤典子医師。服部は横で見ている。服部がいま力を入れているのが人材の育成だ。本当に難しい箇所だけ、服部の出番となる。

谷藤さんは8年前から服部の指導を受け、今ではかなり難しい手術もこなせるようになった。「内視鏡の難しいのはまだまだ……」と謙遜する谷藤さんだが、東北でも指折りの眼科医に成長。今では県外からも患者がやって来るほどになった。谷藤さんは年に1回、服部に同行してベトナムでも活動。服部イズムも学んでいる。

谷藤さんだけではない。服部は全国で人材を育てている。服部の教えを受けた医師は、今や20人以上にのぼる。そのひとり、聖隷富士病院の山本俊一眼科部長は「技術もあり、患者に親身になれる。お師匠さんですね」と語る。

「僕のような人をもう一人育てれば2倍の人を救えることになる。4人育てれば4倍の人を救える。これがすごく大事なんです」

ベトナムでも、服部は50人を超える現地の医師を指導している。そのひとり、ブイ・ティエン・ホン医師は10年以上に渡って服部の教えを受けた。

服部がつくった『日本国際眼科病院』で、ホン医師は院長を任されるまでに。今やベトナムでも指折りの眼科医となったのだ。

「服部先生の活動に参加したことで、私の技術は格段に上達しました。今の目標は、服部先生に頼り切るのではなく、この病院をしっかり運営することです」(ホンさん)

さらに服部はベトナムで、未来に向けた人材の育成もはじめていた。

服部は毎年、母校の高校生たちをベトナムに連れてきている。自らも医師を目指した多感な時期に、人を救う現場を見て何かを感じ取ってほしい。それが服部の願いだ。

『人は人を助けることで、喜びを感じることが出来る』

服部は自らの信念を、さまざまな形で伝えている。



~村上龍の編集後記~

服部先生は小学校で、いじめに遭ったらしい。だが「今日は体育がある」、「今日はソフトボール大会」と楽しみを見つけて登校したそうだ。医学部受験で四浪したときの辛さは、尋常ではなかったという。決して順風満帆ではないし、スーパーマンでもない。人生の節目で、「やりたいこと」「できること」「やるべきこと」を、正直に、順番にやっていくうちに、日本を代表する眼科医になり、多くの人々に光を与えた。「ぼくの手は、神の手じゃない、人間の手だ」――その言葉が、服部先生の哲学と人格を、物語っている。

<出演者略歴>

服部匡志(はっとり・ただし)1964年大阪生まれ。4浪後、京都府立医科大学へ。卒業後、眼科医として日本各地の病院で経験を積む。2002年よりフリーとなり、ベトナムで治療開始。月の半分を日本で、半分をベトナムで医療活動を行なう。2014年ベトナム友好勲章を叙勲。