劇場版『機動戦士ガンダム』Last Shootingの輝くまで 第13回(最終回)

第13回 "Last Shooting"の放つ輝きの意味

 本コラムの締めくくりにあたり、劇場版『ガンダム』3部作を締めくくる「めぐりあい宇宙編」ラストの字幕、"And now... in anticipation of your insight into the future."(そして、今は皆様一人一人の未来の洞察力に期侍します)にもう一度戻って、その意味と位置づけを熟考してみよう。

 この言葉は富野由悠季監督からのラストメッセージであることは言うまでもない。しかし、本来メッセージとは作品を通じて言えば済むことで、強いて「言葉にして伝える」ということは屋上屋を重ねるようになってしまう。それは富野総監督がずっと否定してきた行為でもある。それなのに「あえて……」ということは、格別の目的があるわけだ。その前提で字幕を吟味すれば、文字ヅラ以上の意味が見えてくる。

 ズバリ言ってしまおう。当時の筆者がつかんだ意味とは「もうアニメなんて観ている場合じゃないでしょ、自分自身の人生をまっとうしなさい」ということになる。作品世界の登場人物から現実世界の観客へと「描かれてきた意味」を戻し、「さあ、映画は終わった。自分の人生を進めてくれ」という前提で、改めて「自分の頭脳で再考してほしい」という言葉なのだ。

 自分なりに突っ込んで翻訳すれば、そういうメッセージとしか読めない。

 作中の《ニュータイプ》の定義にしても、自分なりの理解では「言語を超越した洞察力をもつ人」である。そしてアニメーションが可能とする超言語的な伝達、複雑多岐にわたる重層的描写で、『機動戦士ガンダム』という作品は「人間」と「人間の行為」を描いてきた。このこと自体が《ニュータイプ》的とも言えるのである。ならば、その意味を正しくつかもうとする観客もまた《ニュータイプ》的ではないか。

 そんな関係に新しい可能性を見た人たちに「深い洞察をしつつ未来を築きなさい」と告げる。ということは、「もうガンダムの役目は終わった、あとは君たちの番だ」と、そういう解釈しかあり得ない。

 だから、あの言葉の重みは(当時思った「よけいなお世話だ」という若き日の反発とセットになりながら)、その後の約26年間、ずっと記憶の片隅に残り続けて今日に至っている。

 こうした考察を通じ、劇場版3部作とは『機動戦士ガンダム』という物語をきっちりと終わらせるための作品だったという位置づけが、改めて見えてくる。

 事実、宣伝にも作品内容にも「終わらせるための作品」だった証拠が随所に残っている。まず、ポスタービジュアルは大河原邦男の「首なしガンダム」がビーム・ライフルを撃つ図案。壊れたガンダムに、本来未来はない。そして"Last Shooting"というキャッチフレーズも「これが最後」という当時の気分が集約されている。

 フィルムのほうも、そうした気分に呼応したものと見ることができる。「ガンダムの顔を取る」ことは「玩具らしさ」から離れる行為を意味する。そしてTVシリーズ時の最終回サブタイトルは「脱出」だった――つまり描かれたものの正体とは、オモチャからの脱出、子どもっぽさからの脱出、固定観念からの脱出、旧弊からの脱出、そして「現実逃避としてのアニメ鑑賞」からの脱出……。ということだったのであろう。

 実際、「めぐりあい宇宙編」の作中でもアムロは首のないガンダムを捨て、生身となって戦う。そして最後にガンダムの上半身を排除して巨人のボディを排除する。ギリギリの状態で、自ら操縦するコア・ファイターで飛翔し、脱出していくのである。ガンダムというモビルスーツは、人型をしているだけに、一時期はアムロのアイデンティティであるかのように機能していた。まさに生身の上に「スーツ」のように着込むことで、自分以上の「何者か」になって戦うことができたのだ。ある種の「才能」のメタファー(暗喩)が、ガンダムだったと解釈できる。

 しかし、その戦いもいつかは終わる。ガンダムを捨てて脱出し、死の世界へ行ったララァのところから決別し、仲間のもとへと向かうという選択は、「人生の始まり」を意味している。『ガンダム』は、物語のひとつの王道である「ビルドウングスロマン(成長譚)」としてのゴール、つまり「物語の結末」と「現実の始まり」を迎えているのである。青春彷徨を続ける若者のための物語として終わりを告げ、受け手の実人生に思索を戻すのは、「教養小説」とも訳されるビルドウングスロマンの重要な役目なのだ。

 こうした複合的な意味あいにおいて「完結」を目ざし、その上で未来につなげようとしたのが、劇場版『機動戦士ガンダム』3部作であった。

 実際にはガンダムは完結せず、1985年に続編のTVシリーズ『機動戦士Zガンダム』がスタートする。それが劇場版『ガンダム』の続きであるような体裁となっていたため、結果的には続編への可能性を内包した作品と、今では見られているかもしれない。

 続編やシリーズ化を否定するような姿勢と、むしろガンダムファンを増やして続編を触発する萌芽となるような要素。劇場版『ガンダム』とは、こうした引き裂かれ矛盾している2面を兼ね備えてもいたわけだ。長い年月が過ぎた今では、そうした複雑性さえもが「ガンダム的」であるように思える。

 そんな警句含みの箴言(しんげん)のような要素が散りばめられた劇場版『機動戦士ガンダム』――その中に耽溺するものではなく、たまに作品に浸ってみて、現実を見つめなおす行為は良いものかもしれない。

 ポスタービジュアルに描かれた"Last Shooting"の輝きは、上方……つまり、絵画的には「天空=未来」を意味する方向へ放たれている。その一瞬の輝きに秘められた深く複雑なる意味性を胸に、ぜひともフィルム上での「脱出」を追体験していただきたい。

 そこからまた、さらなる未来へつながる新しいものが生まれることを期待して……。【完】

(文中:一部敬称略/「○年後」などの時制は執筆当時のものです)

【2007年12月18日脱稿・2017年6月18日加筆】初出:劇場版『機動戦士ガンダム』公式サイト(サンライズ)