客を笑顔に、地方を元気に!菓子専門店の独自すぎる経営術/二木の菓子/読んで分かる「カンブリア宮殿」



1万種類の品揃えで大盛況~お菓子の総合デパート

年の瀬の東京・上野アメ横に、ひときわお客を集めている店があった。お札を握りしめている群衆の先には、落語家の林家三平さんの姿が。年末恒例の三平さんの福袋即売会だ。この店は「親父の代からお世話になっています」と言う。父の初代・林家三平といえば、耳から離れないのが「ニキニキニキニキ…」と連呼する二木の菓子のCMのフレーズだ。

二木の菓子の店内は大盛況。お菓子はどこで買っても同じかと思いきや、客に愛される理由があった。「スーパーに売っていない昔ながらのお菓子が多い」「種類がいっぱいある」……。客を呼ぶ理由は圧倒的な品揃えにある。その数、なんと1万種類。アメ菓子ひとつとっても300種類以上ある。大根を使った「たんきり飴」や、懐かしい氷砂糖も。柿の種だけでも10社50種類もある充実ぶり。

昔から愛される菓子も取りそろえる。藤田製菓「五家宝」(253円)は、もち米をあられにし、きな粉の甘い生地で包んだ、江戸時代から続く伝統の和菓子。色がきれいな八雲製菓「ウイスキーボンボン」(185円)に、京丸「うなぎボーン」(475円)など、酒好きにはたまらない珍味も多い。

二木の菓子は、欲しいお菓子が何でも揃ういわば「お菓子の総合デパート」なのだ。

客を魅了するのはそれだけではない。卸問屋でもある二木の菓子では業務用の大袋もお得な価格で販売。「塾をやっていて、子供たちにご褒美にあげる」といった需要にももってこい。たとえば「スーパージャイアント」という商品は、880円で小袋に入ったお菓子が「1袋に90個ぐらい入っている」という触れ込みだが、数えてみると128個も入っていた。

二木の菓子の創業は1951年。現在、アメ横だけで3店舗、東京を中心に16店舗を展開。売上高は51億円になる。

「安く売るには苦労もある」と、常務の川村耕一にバックヤードへと案内された。積み上げられた大量の段ボールに入った商品は「1か月の在庫が3回転以上する」(川村)と言う。だが、「1ケースの単価が1000円くらい」。利益は「一箱売って20円か30円」と言うのだ。

二木の菓子はどうやって利益を出しているのか。その武器が地方菓子だ。店に置かれている菓子の実に7割が、全国に流通していない地方の小さなメーカーの商品なのだ。

「他の店にはない商品なので、正規の値段でも十分買っていただいています」(ビック館・大野桂司店長)

都内で滅多に売られていない地方菓子は、価格競争をする必要がないから、適正な値段で売ることができる。

「これを買いに来たんです」という女性客のお目当ては、山梨県の菓子メーカー、ハッピーカンパニーが作っている「まろやか干し梅」(864円)。種を取った梅を乾燥させたもので、山梨の宿ではお茶請けの定番なのだという。



地方の隠れた銘菓を発掘~二木の菓子のサバイバル術

二木の菓子は、地方に埋もれた名もなきお菓子をどのようにして発掘しているのか。

そのカギを握るのは、毎月1回行われる仕入れ検討会議だ。参加するのは各店舗の店長やバイヤーたち。テーブルの上に大量のお菓子をぶちまけ、バイヤーが商品名を読みあげると、全員がその商品を手にし、一つ一つ食べていく。この日試食するのは370種類。仕入れる商品を厳選するため、朝10時から夕方4時まで6時間も食べ続けるという。

こうした地方のおいしい菓子を求めてバイヤーが全国を飛び回っている。この日やってきたのは京都市。「武中製菓」は1958年創業の小さなメーカーだ。あられが専門で、品揃えは九条ねぎや山椒味など、いかにも京都らしい。

気になったものをいくつか購入し、店を出るやいなや封を開けた。「香りすごいよ、山椒。面白いよ、これ」と、ボリボリ食べる二木の菓子社長・二木正人(68)。バイヤーたちはメーカーの展示会や直接店に出向いて菓子を発掘。その先頭に立つのが社長の二木だ。   

「地域ごとに面白いもの、おいしいものがあります。全国のそういうものを紹介するのがうちの強みですから」(二木)

二木の菓子との取引で地方のメーカーは業績が大きく変わるという。

栃木県宇都宮市の「本橋製菓」は創業以来、たった一つのお菓子だけを作り続けてきた。それが「あん入ドーナッツ」(248円)。10年前、二木のバイヤーが惚れ込んで取引が始まった。すると「二木さんに出すようになって、大手からも引き合いがきて、おかげさまで助かっています」(本橋良司社長)。二木の菓子と取引を始める前に比べて、あんドーナツの売り上げは3倍に増えたという。

二木の菓子では店ごとに売り方にも特徴がある。

たとえば東京・福生市の福生駅前店。店の前では、菓子が入った段ボールを次から次へと車に積みこんでいた。これからお菓子の訪問販売に行くという。向かった先は老人ホーム「第二清風園」だ。

この日、持ってきたのはおよそ80種類。「昔菓子や地方菓子、お煎餅類はなるべくやわらかいものにしています」(星英次店長)という。入居者を飽きさせないよう、毎回違うお菓子を用意する気遣いもしている。

入居者たちがやってきて、たちまち人だかりができた。2週に1度の訪問を、みんな心待ちにしているという。

「なかなか買い物に行くこともできないので、自分で選べるのはすごくいい機会になっています」(施設長・北川達三さん)

二木の菓子が売るのは、単なるお菓子ではない。

「おいしいお菓子を食べてニコッとしない人はあまりいない。家族だんらんであったり、笑顔を仲介するのがお菓子であると思います」(二木)



アメ横発のお菓子屋~家族で手がけたゴルフ、居酒屋、激安店…

戦後間もなく上野の高架下にできた闇市。それが拡大して、いつしかアメヤ横丁、通称「アメ横」と呼ばれるようになった。

そこで一旗揚げようと、現社長の父・源治は故郷長野を離れ、商売を始める。しかし、そこはすでに多くの商売人で溢れ、源治が確保できたのはミカン箱1つ分のスペース。周りは、血の気の多い荒くれ者ばかりで、揉めごとも絶えなかったという。

「聞いた話だと、闇市の世界だからいざこざが多く、大変だったそうです。みんな鎌を持って出入りをしていたというから、怖いなと」(二木)

やがて源治はある機械を手に入れる。米を入れて圧力釜を加熱していく。膨らんでサクサクになったコメに溶かした砂糖をかけたのが、ポン菓子と呼ばれる「爆弾あられ」。菓子に飢えていた時代に大当たりした。

1951年、源治はアメ横に念願の店、二木の菓子を構えた。売り上げも上々で、高度成長期になると事業の多角化にも乗り出した。喫茶店にパチンコ店、居酒屋、ベーカリーまで。二木ゴルフもその一つだ。

そんな源治の次男として正人は1950年に生まれる。立教大学ではアメリカンフットボール部で活躍。2歳上の兄・一夫とともに関東選抜のメンバーにも選ばれた。

75年、二木の菓子に入社すると、さっそく自ら提案した新事業の視察でアメリカへ渡る。帰国して始めたのが、家電や日用品を激安で売る「ディスカウント二木」だった。それが大当りし、正人は郊外に出店攻勢を仕掛けていった。

「畑の真ん中に店を建てて、遠くから車で来ていただく。面白いように売れて商品がなくなりました」(二木)

家族で力を合わせ、会社は大躍進した。だが、暗雲が立ち込める。それは91年の大規模小売店舗法の改正。これを機に、巨大ショッピングセンターが続々と郊外に進出してくる。値段と品揃えで見劣りする正人のディスカウント店は、客が激減、たちまちピンチに陥った。そこで正人は、大きな決断を下す。

「お菓子の専門店だからお菓子を売ろう、と。元々お菓子屋に生まれて育った。お菓子が一番親しみやすいな、と」(二木)

自ら始めたディスカウントストアを菓子の専門店に変え、巻き返しを図った。しかし、菓子を買うために、わざわざ郊外まで足を伸ばす客などいなかった。品ぞろえもライバルと似たり寄ったり。魅力ない店に閑古鳥が鳴いた。



地方の菓子メーカーと連携~協力して独自ブランドも

そんな矢先、二木の菓子の社長、父の源治が他界する。正人は後を継いで社長になるが、その翌年には、二木ゴルフの社長をしていた兄の一夫もがんで急逝する。

「これは困った、兄貴がいなくなっちゃったよ、と。兄貴と『ああしていこう、こうしていこう』と話をしていましたから」(二木)

父と兄を相次いで失い、事業を一手に背負うことになった正人。その過労のためか、兄の死からわずか1年後、今度は正人自身が心筋梗塞で倒れてしまう。

「ドクターからは『死んでもおかしくなかった』と言われました。お菓子のこと、ゴルフのこと、社員もたくさんいるし、私がここで死んだら大変なことになるから、死ねないなと思いました」(二木)

手術は成功。一命を取り留めた正人は不振の菓子事業に専念し、打開策を模索していく。転機となったのは、ある地方の菓子メーカーに挨拶に出向いた時のことだった。その会社は廃業しようとしていた。

「菓子メーカーさんは零細なところも多いから、廃業する会社も非常に多い。いい技術を持っておいしいものがあるのに、もったいない。そういうところを応援する意味合いもありました」(二木)

正人は、地方に埋もれたおいしいお菓子をどんどん発掘して、売っていこうと思った。それは同時に、よそにはない武器にもなる。以来、バイヤーを全国に駆け巡らせ、えりすぐりのお菓子を集めて、店に並べていった。 

すると、よそでは買えない地方の菓子を求めて、客が押し寄せるようになったのだ。

さらに二木の菓子は、新たな展開を進めている。東京・墨田区の人気スポット・東京スカイツリーにあるソラマチ店に「ふたつ木」という文字が。これは二木の菓子のプライベートブランド。小売りだけでなく、自ら開発にも乗り出したのだ。

その数80種類以上。これまで関係を築いてきた地方メーカーと手を組み、それぞれの強みを生かした商品を作っている。

中でも評判なのが「最中」(156円)。その最大の特徴は、最中の皮にあるという。作っているのは、京都府伏見区にある「石田老舗(ろうほ)」。明治4年から続く老舗だ。

最中の皮の原料はもち米。一度焼いた皮に一手間加えるという。焼きあげた皮を砕いて粉末状にし、それをもち米の粉に1割ほど混ぜてから蒸し、ついていく。こうしてできた生地を、再び焼くことで、従来の皮よりも香ばしくなり、食感も良くなるという。「パリッ」という食感も受けて大人気商品になった。

「関東の市場で、しかも老舗のお菓子屋さんが新しいブランドに挑戦する。これは何が何でも協力して、一緒に頑張っていきたいと思いました」(石田宏次社長)

二木の菓子の強さを支えるのが店内のあちこちに貼られているユニークなポップ。これがお客に大好評。「えびあられ」というお菓子には「商品を育てるとはこういうことかも」というコピーがついている。  

これを一手に担っているのが販売促進部の成田愛。10年前から担当し、コピーも一人で考えている。その特徴は商品の情報がほとんどないこと。「商品の説明よりも、いかに共感を得られるかを考えて書いています」という。



メード・イン・ジャパン~地方の菓子を海外へ売り込め

ここ数年、二木の菓子では客層が変わってきた。インターネットの口コミで外国人の客が急増しているという。

そんな二木の菓子が2018年、海外に打って出た。タイの首都バンコクで今、一番ホットな場所と言われるタイ最大級のショッピングモール「アイコンサイアム」。広さは東京ドーム11個分で、世界の名だたるブランドが勢ぞろいしている。

そんなトップブランドに混じって見えてきた赤い看板の二木の菓子。バンコク店は初の海外店。アメ横と同様、信頼するジャパンメイドの地方菓子で勝負する。

中でも起爆剤として投入するお菓子は、タイの人たちにあまりなじみのないユズの皮を砂糖漬けにした「ゆずのまんま」だ。「香りが良くておいしい」と好評のようだ。

 視察にやってきた二木はタイ進出の狙いを「海外に販路を広げたいというメーカーさんの希望もあります。中小メーカーのものが多い。そういう商品を東南アジアに卸すための第一歩でしょう」と語る。

日本の地方菓子でアジアにも笑顔を広めたい。



~村上龍の編集後記~

「二木の菓子」、効率とは何だろうかと考えてしまった。「ガムとかチョコは楽なんです」と二木さん。かさばらないということだ。1個100円のポテトチップスで10万円の利益をあげるためには5000個が必要らしい。放っておけば消滅しそうな地方の中小零細企業の商品を二木は仕入れる。非効率なことばかりという印象がある。

では、二木には何があるのか。客を喜ばせ、興奮させるような「魅惑的な混沌」ではないか。広大な店内で、客は探検者の気分を味わう。それは、効率という概念を超えた商売の王道なのかもしれない。

<出演者略歴>

二木正人(ふたつぎ・まさと)1950年、東京都生まれ。1973年、立教大学卒業後、大阪の橘高に入社。1975年、二木へ入社。1998年、社長就任。

(2019年2月7日にテレビ東京系列で放送した「カンブリア宮殿」を基に構成)