京都の老舗・聖護院八ッ橋総本店「守って攻める!」320年伝統菓子の極意/読んで分かる「カンブリア宮殿」

京都・宇治の老舗茶卸~抹茶スイーツで大逆転

東京・銀座の新名所、去年4月にオープンした「ギンザ・シックス」には、これまで東京では味わえなかった地方の人気店、名店が集まっている。長い行列の先に「中村銘茶」と書いてある暖簾が。その向こうはモダンなカフェになっていた。

1年前に京都からやってきた店が賑わうのは、特別なパフェが味わえるから。店のロゴをあしらった抹茶パフェ、「別製まるとパフェ」は一杯2200円。手摘みし、1年かけて熟成させた最高峰の抹茶を惜しみなく使っているのでこんな値段になる。そして他では味わえない名物が、抹茶そのままの味が口いっぱいに広がる「生茶ゼリイ」(1350円)だ。

ここは本格的な抹茶スイーツを売りにした「中村藤吉本店」。京都で160年続くお茶の専門店だ。京都の伝統的な抹茶を使ったスイーツを最初に世に送り出した、いわばパイオニアだが、その成功の裏には京都ならではの習わしとの戦い、「邪道」からの大逆転劇があった。

「中村藤吉本店」のふるさとは平等院鳳凰堂と宇治茶で知られる京都・宇治。平等院から続く参道には、「辻利」を始め江戸時代から続く宇治茶の老舗がズラリと軒を連ねている。その一角にあるのが「中村藤吉本店」の宇治本店だ。

店内ではお茶の専門店らしい試飲も行われていた。客が1回目と2回目に淹れたお茶の微妙な味わいの違いを楽しんでいる。こんな専門店が京都府内に3店舗。国内外合わせて7店舗を展開している。

「中村藤吉本店」の始まりは、初代藤吉が江戸末期の1854年に創業したお茶の卸問屋。大正期には天皇家にも献上。宇治の名店の仲間入りを果たした。しかし、平成に入ると急須で淹れるような茶葉は売れなくなり、店は廃業寸前にまで追い込まれた。

その危機を乗り越え、店を大きく躍進させたのが6代目中村藤吉(66歳)だ。1992年に卸問屋を継いだ中村はある奇策に打って出た。卸問屋なのに抹茶のソフトクリームを作ったのだ。

それも自分が持つ最大の武器、てん茶を石臼でひいて作る最高級の抹茶を使う。100分の1ミリという微粒子のため、ソフトクリームはなめらかな舌触りになる。この特性を生かし、本格的な抹茶の味が楽しめるソフトクリームを半年かけて完成させたのだ。これが口コミで評判となり、廃業寸前の店にも活気が戻った。

しかし、そのやり方に対し京都のお茶業界の反応は「『おい、まると(中村藤吉)はお茶屋をやめたぞ』と言われていたみたいです」(中村)。苦楽を共にしてきた妻のかや乃にも忘れられない言葉があった。

「『あんたのところは水商売してるの?』と言われた。感覚的にそうなんです、ひとつ前の世代は」

周囲にさんざん揶揄されながらも、夫婦は抹茶スイーツに活路を見出したのだ。

そして2001年、スイーツの柱となる商品が完成する。抹茶そのものの味と評判の「生茶ゼリイ」だ。その食感は、プルプルなのにどこかモチモチ。プルプルの食感を生み出す決め手は、ゼラチン濃度を厳格に守ること。さらに抹茶は熱に弱く、風味や色がすぐに飛んでしまうため、混ぜ込むゼラチン液の温度も素早く下げなければならない。最適なゼラチン濃度と温度。これを1年かけて探り出し、かつてない名物ゼリーは誕生したのだ。

このスイーツを看板に2001年、カフェをオープン。すると、よそでは食べられない本格的な抹茶スイーツが評判となり、店は連日、大盛況となった。カフェの成功で会社の売り上げは卸専門だった社長就任時の10倍に。周囲の評価も一変した。

「3年、5年と経って我々のカフェがはやったら、評価は『先見の明がありましたね』『いいことやりましたね』。どの口が言うか、と」(中村)

本格抹茶スイーツの快進撃は続き、今やカフェと小売の売り上げは全体の9割近くを占めるまでに。中村はおろす寸前だった160年の看板を守ることができたのだ。

京都320年の老舗~八ッ橋の伝統と革新

京都・伏見稲荷大社は年間1000万人が訪れる人気スポットだ。トンネルのような千本鳥居は圧巻の風景。その参道で、ひと際お客を集めるのが「聖護院八ッ橋総本店」稲荷店だ。

お客のお目当ては京都土産の代名詞「生八ッ橋」。モチモチの生地とアンコ、ニッキがハーモニーを奏でる。中に「何も入ってない皮だけがいい」という客も。ニッキの味とモッチリした食感が楽しめる隠れた人気商品だ。

もうひとつの看板商品が焼いた「八ッ橋」。その名前は江戸前期に活躍した琴の名手、八橋検校(けんぎょう)からとったものだ。検校の死後、供養に来る人のために聖護院の参道にある茶店で琴の形のお菓子を作ったのが、「八ッ橋」の起源とされる。

この道一筋320年の「聖護院八ッ橋総本店」は、「八ッ橋」の売り上げではライバルを抑え、トップシェアを誇る。

その本社は京都市左京区の住宅地にある。中は工場になっており、年末の取材時には餅つきが行われていた。各店舗に飾る鏡餅を毎年こうして作るのが恒例になっていると言う。

率先して杵を振るう社長の鈴鹿且久(68歳)は「本物志向でものづくりをしているので、時代ごとに極端な違いは出してないです。それがこだわりかもしれません」と言う。

数ある土産物の中で選ばれている本物志向の味。その売りの一つがモチモチした生地にある。それを生み出すのは国産の米粉だ。そして「八ッ橋」の味の決め手はニッキ。ニッキはシナモンの一種で、通常は粉末だが、「生八ッ橋」に使われるのはシナモンの樹木から取った精油。そもそもニッキで香りづけしていなければ「八ッ橋」とは呼べず、伝統の味に欠かせないスパイスとなっている。国産小豆で作った餡を包み込めば、おなじみの「生八ッ橋」が完成する。

工場では多い時には1日30万個を製造。長年に渡って支持される伝統菓子は、ひたすら実直に作られていた。

「聖護院八ッ橋総本店」の創業は1689年。犬公方と呼ばれた徳川綱吉の時代だ。以来320年にわたり、伝統の「八ッ橋」を作り続けてきた。

鈴鹿は38年前に店を継承。そこには先祖代々受け継がれてきた経営哲学がある。

「ちょうちん経営と言っているのですが、いい時には伸ばせばいいし、悪くなれば小さくすればいい。それができる柔軟性のある会社を心がけています」(鈴鹿)

時代の変化に合わせ、守る時には徹底して守る。京都にはそうして生き残ってきた老舗がたくさんあるという。

守る一方で「攻めの経営」も。その鍵を握るのが鈴鹿に寄り添う、一人娘で専務を務める鈴鹿可奈子だ。老舗の跡取りでもあるが、現状には大きな危機感を抱いていると言う。

「昔は観光客の数が増えたら『八ッ橋』の売り上げも増えていたのですが、京都に来る方の9割が買っていたのが、だんだん下がっている。これでは生き残っていけない」(可奈子)

生き残るにはこれまでの伝統を踏襲するだけでは無理。若き跡取り娘は新たな一手を打ち出した。

「お土産という概念にとらわれずに、『八ッ橋』を素材と考えて、食べ方を発見してもらえたらいいなと思っています」(可奈子)



京都の老舗銘菓に新風を吹き込む跡取り娘

大分市民が心待ちにしていたイベントが老舗百貨店「トキハ本店」で開催された。京都の物産展だ。人だかりができていたのは「聖護院八ッ橋総本店」のブース。京都の味が大分で手に入ると、飛ぶように売れていく。

会場からは粋な音色が流れ、視線を集めていたのは舞妓さん。その舞台の袖には専務の可奈子がいた。実は彼女、去年から京都物産展を開く団体、京都府物産協会の理事も務めている。大分のイベントは理事として任された最初の催事で、絶えず気を配っていた。

「社長の父は1年の3分の1は出張に出ていて、『あまり家にいないな』と思っていたのですが、いざ理事になると、『こういうふうにお客さんの顔が見たかったんだな』と分かります」(可奈子)

可奈子は1982年、鈴鹿家の一人娘として生まれた。兄弟のいなかった可奈子の小さな頃の遊び場は会社。従業員からよく八ッ橋をもらって食べていたと言う。自然と、いつか家業を継ごうと考えるようになった。

「それだけ好きなものに携われる仕事に就けるのはなかなかないこと。『私が八ッ橋屋さんを継ぐ』と父にはっきり言ったのが中学1年の頃でした」(可奈子)

経営を基礎から学びたいと京都大学経済学部に進学。アメリカの大学にも留学し、プレMBAを取得。最先端の経営学を身につけた。そして外で1年間働いたのち、2006年、「聖護院八ッ橋総本店」に入社する。

しかし、そこで見た伝統菓子業界の現状は決して甘くなかった。京都にやってくる観光客自体は急増しているのだが、土産物に占める八ッ橋の割合は減り続けていた。危機感を抱いた可奈子は社内改革に乗り出す。

まず手を付けたのが旧態然とした人事制度。それまでの年功序列にメスを入れ、アメリカ式の評価制度を取り入れた。

「年功序列が悪いとは言いませんし、うちの会社には長年勤めて下さった方もいらっしゃって本当にありがたいのですが、やはり頑張った人にちゃんと還元できる会社にしたいと思って」(可奈子)

そして生き残っていくために何としてもやりたかったのが、時代に合った新商品の開発。しかし社長の鈴鹿はなかなかゴーを出してくれなかった。

「商品開発に関しては、必ず社長が『100年続く商品ですか』と問いかけるんです。満足のいくおいしさでなければ新商品は出さない、と」(可奈子)

これが八ツ橋?~京都老舗のサバイバル

そんな中で可奈子が考えたのは、これまでとは違った客層を振り向かせる商品だった。新しいブランドを立ち上げ、若い女性客を取り込もうとしたのだ。そしてひねり出したのが、キャラクターの「八ッ橋」。これなら飽きずに楽しんでもらえる。

「1ヶ月に1度のペースで来た方が『見たことがない商品がある』というのをコンセプトにしています。楽しい日常のお菓子として見てもらえたらな、と思います」(可奈子)

今までの伝統商品とは全く違うが、社長も「反対はしなかったです。何か新しいものが出来上がったらいいな、と。なかなか面白いと思いましたね」(鈴鹿)と言う。常に余裕を持つ「ちょうちん経営」だからできた挑戦でもあった。

そして出来上がったのが可愛らしい「八ッ橋」。可奈子は新ブランドを原料のニッキからとって「ニキニキ」と命名した。2011年には実験的な専門店をオープン。すると思惑通り、若い女性客の評判となった。

中には喜ばれそうな仕掛けを取り入れた商品もある。「カレ・ド・カネール」(1個108円~)。お客は生地と餡、好きなものを組み合わせて注文することができる。例えば「抹茶と白味噌」の注文で出てきたのは生地が花びらを思わせる「八ッ橋」だった。生地は5種類、黒ごまや抹茶などの味が付いている。餡は洋ナシやイチジクのジャムなど、「八ッ橋」のイメージとは離れたものも用意した。

さらに追い風となったのがSNSの投稿ブーム。宣伝広告は一切打たなかったが、「インスタ映えする」と女性客が盛り上がり、話題が拡散していったのだ。曰く「生八ツ橋とは思えないかわいさ」「もはや食べ物とは思えないかわいさ」……。

乙女心をくすぐる一方、製造法にもこだわった。可奈子が選んだのは、昔ながらのセイロで蒸す手法。「手でやったのと機械でやったのでは全然ものが違う。手でやったほうが細かな作業に適したものができる」というのがその理由だ。最後にものを言うのは伝統製法。多くの工程を手作業で行うことで、よりおいしさが引き出せることを再認識したのだ。

さらに、若手社員が自分からデザインを提案するようになるという相乗効果も。入社5年目の宮下夕佳里は、自分が考えた「ニキニキ」が店頭に並ぶことで仕事へのモチベーションが上がったという。

「もともとこういうものを作るのが好きだったので、商品化されて、お客様に買ってもらって好評だったので嬉しかったです」

320年の超老舗に新しい風を吹き込んだ可奈子。その根っこにあるのは小さな頃から大好きだった「八ッ橋」への思いだという。

「私がずっと食べてきておいしいと思っているこのお菓子を、次の世代にも続けていく。その架け橋になるのが私の使命だと思っているので、『八ッ橋』という分野の中で、いろいろなことをしたいと思います」(可奈子)

~村上龍の編集後記~ 

聖護院八ッ橋総本店はとても不思議な会社だ。329年の歴史があるのに、沿革として記されている項目が少ない。江戸、明治、大正を合わせて項目が5つしかない。

また、八ッ橋が誕生してから、二番目の商品である「聖」まで、278年も経っている。だが、なぜか「保守的」だとは感じない。

京都は非常に長い間、日本文化をリードしてきた。ずっとトップランナーだったのだ。

「nikiniki」のお菓子は、フランス料理のデザートのようだった。

「魅惑的な謎」に充ちた京都以外では考えられない、デザインと味だった。

<出演者略歴>

鈴鹿且久(すずか・かつひさ)1949年、京都府生まれ。京都産業大学経済学部卒業後、家業である聖護院八ッ橋総本店に入社。38歳の時に社長就任。

鈴鹿可奈子(すずか・かなこ)1982年、京都府生まれ。京都大学経済学部卒業。在学中にアメリカへ留学しプレMBAを取得。卒業後帝国データバンクを経て、聖護院八ッ橋総本店に入社。2011年、新ブランド「nikiniki(ニキニキ)」を立ち上げる。