ブラックからホワイトへ!「働き方革命」最前線/読んで分かる「カンブリア宮殿」

あなたの会社は子どもを入れたい会社ですか?

西垣和哉さんは23歳で念願のシステムエンジニアの仕事に就いた。だがその4年後、わずか27歳で人生を終えた。過労死だった。

2002年、大手電機メーカー系列の情報システム会社に就職。入社後すぐその力量を買われ、国や企業のシステムを開発する大型案件を任された。

システムエンジニアは、企業活動や私たちの生活に関わるさまざまなコンピューターシステムを作るのが仕事。トラブルが起きれば大きな影響が出るため、その対応も迫られる。そのため仕事量も膨大で、和哉さんも過酷な長時間労働に苦しんでいた。

その勤務記録を見ると、朝9時から始まって32時半、つまり翌朝の8時半まで働いている。そしてその30分後の9時からまた働き、夜の9時54分まで。なんと37時間連続勤務だ。このころ和哉さんが綴っていたブログには、「自分では処理しきれないことがありすぎる。死ぬって事すら考えるときもある」とある。多い月で150時間を超える残業をし、2年目にはうつ病を発症。それでも納期に間に合わせるために働き続けた。

和哉さんの最後の叫びは「あと誰か一人、今の仕事に人員を入れて欲しい」。この2日後、治療薬を大量に服用し帰らぬ人となった。母親の迪世さんは、「私たちが一生懸命育てた一人一人の子供です。もう少し人間としての扱いをしてほしかったと思います」と語る。

和哉さんと同期で、仕事も同じSEだった木谷晋輔さん。木谷さん自身も長時間残業でうつ病を発症し7年前に退職。現在も薬を飲み続けている。「(残業が月)100時間を超えている人がざらにいる状況」(木谷さん)を、会社側は当然視していたようだ。

というのも当時の社内報に、社員のこんな働き方が紹介されていたのだ。朝9時に出社し、昼休みをはさんで夜11時まで残業。深夜0時に帰宅し、夕食はそれから……。

「みんなで頑張っていくのが社会、仕事だと思っていたので、長時間労働せざるを得ない状況に疑問を感じていませんでした」(木谷さん)

過労死認定の目安の一つである「残業月80時間」を超える業種の一位が、ITなどの情報通信。他にも高い専門性や人手不足の業種が多い。

長時間労働の問題を、村上龍は「日本社会の評価の尺度は、どんな成果を上げたかってことじゃなくて、どのくらい頑張ったか。今もそれが美徳として、文化として続いている。それが最大の問題だと思う」と見ていた。



残業削減でブラック労働から大変身した大企業

過酷な残業が当たり前の情報システム企業で「働き方革命」が起きている。情報システム業界第5位のSCSK。従業員1万1千人、売上高3200億円の大企業だ。

システム推進担当の五月女雅一さん。金曜日の午後3時になると、早々と帰宅。この日は週1回の早帰りの日なのだ。夕食前に小学1年の次男の宿題を見る。数年前まで、とてもこんな時間は持てなかったという。以前の金曜は、土日に仕事を残さないよう決まって残業、帰宅はなんと午前2時。それが現在は6時半には一家団らんの夕食だ。

その変化に一番驚いたのは妻のさおりさんだった。「同じ会社とは思えない。今の言葉ではブラック企業。潰されちゃうんじゃないかなと思っていました」と言う。

さおりさんが見せてくれたのは3年前、夫の会社のトップから全社員に送られた一通の手紙だった。冒頭に「ご家族のみなさまへ」と書かれた手紙には、「一流企業となるためには、家庭生活を充実させることが大切です。職員の皆さんが健康であり続けるために、最大限の支援をします」とある。そこには健康を本気で考える経営者の覚悟が記されていた。

「こんな会社、あるのかなと思いました。健康な社員がいるからこその業績アップとの考え方を伝えていただき、いろいろな不安を取り払ってくれる手紙でした」(さおりさん)

残業削減を仕掛けたのがこの手紙の主、SCSK相談役の中井戸信英だった。「働き方改革」の先頭を走る、いま注目の経営者だ。

「従業員を犠牲にして、ブラック企業と言われて残業をめちゃくちゃやらせて、それで利益を出しても一流とは言わない。世間で、あの会社は立派だ、いい会社だ、自分の息子や娘も就職させたい、いい会社に勤めているらしいねと言われ、それでいて成果も出せる会社。そのためにはやっぱり“働き方”なんです」(中井戸)



「残業減らせば残業代」驚きの“働き方革命”大公開

中井戸の前職は住友商事の副社長。2009年に子会社の住商情報システム社長に就任。その後、同業のCSKと合併しSCSKをつくった。だが、社員を激励しようと社内を見て回ると、そこで衝撃的な働き方を目の当たりにする。

「残業の問題です。月50~80時間の人がいる。会社に寝泊りしている人がいる。それでまともな仕事ができるのか、そんなイメージを持った」

そこで中井戸が取り組んだのが残業半減運動だ。残業を減らすため、まず社員に残業しない日を申告させた。夕方、仕事を振ろうと思っても、「ノー残業」という札を出している人には振りにくい。さらに会議は立って。しかも原則1時間など、ダラダラ仕事を徹底的になくしていった。

極め付きは残業代の扱いだ。ある社員の賞与明細を見せてもらうと、残業を減らした分、「報奨金」として、ボーナス12万円上積みされていた。中井戸は、「残業を減らせば残業代を出す」という前代未聞の策を打ち出したのだ。

中井戸改革の効果はてきめん。残業時間はみるみる減っていった。にもかかわらず、SCSKの営業利益は6期連続右肩上がりだ。

SCSKには他にもうらやましいことがいくつもある。その一つがマッサージルーム。国家資格を持ったマッサージ師が常駐している。20分500円からと格安だ。

一方、社員には毎日、会社が定める健康チェックが課されている。出社すると、まず万歩計を見て昨日一日歩いた歩数を入力する。さらに酒を飲んだか、歯を磨いたか、朝食は取ったかなど、会社が定める健康チェックについて答えていく。これは「健康わくわくマイレージ」という社員の健康管理システム。健康基準を満たしてポイントを貯めると、ボーナス時にその分の支給がある。



従業員を大切にする~異端すぎるトップの信念

中井戸がこれほどまで社員の健康にこだわり、働き方改革を進める裏には、半世紀にわたる仕事人生で培った揺るぎない信念があった。

中井戸は1971年、総合商社大手の住友商事に入社する。時は高度成長の末期。商社マンといえば花形で忙しい仕事の代表格だった。しかしそんな中で、中井戸はひとり異彩を放っていた。

入社1年目。研修が終わったばかりの7月に、中井戸はいきなり一週間の夏休みをとった。すると休み明け、上司に呼び出された。「何を考えているんだ。新人のくせに一週間も休みを取るなんて生意気だ!」という上司の言葉に納得できず、みんなの前で「おかしいじゃないですか。決められた休みを取って何がいけないんですか」と、言い返した。

「モーレツ社員というイメージが商社マンにありました。僕はそういう考え方には馴染めなかった。その代わりやるべきことは後ろ指をさされないようきちっとやる」(中井戸)

「接待にも行きませんでした。毎日のように定時に帰ってきました」(妻の恵美子さん)

働き方を考えるターニングポイントとなったのは、入社3年目のドイツへの赴任だ。

ある日、取引先のドイツのメーカーに「日本の優れた製品を紹介したい。明日の夜、時間はありますか?」と電話をすると、「ダメだ。夜は家族と過ごす時間だから残業はしない。夕方までに話をまとめられるか」という返事。決められた時間の中で高い成果を出すドイツ人と何かと波長があった中井戸は、次々と大口契約を獲得した。

96年にはアメリカへ。ITという新たな産業がおきつつあったシリコンバレーで、若者たちの生き生きとした働きぶりを見て感銘を受けた。

「彼らはすごく働くが、残業で追いまくられるのとは違う働き方ですよね。仕事はするがゆとりがある」(中井戸)

取引先にも協力要請~モーレツ社員はこうして変わった

「働く時間を減らして生産性をあげれば業績は必ず上がる」という中井戸の信念を、開発の現場はどう受け止めたのか。

チームの働き方改革を担ったシステム開発担当部長の領木康人も、多い月は180時間以上も残業していたモーレツ社員だった。「最初は絶対にできないと思っていました」という領木だが、長時間残業が慢性化していたチームの働き方を一から見直すことにした。

これまでは、担当者がシステムを開発し、納品直前にようやくテスト。だが不具合があったり、クライアントの新たな要望があると、その都度作り直しになる。この作っては直しの繰り返しが残業の温床となっていた。

そこで領木は、最初から複数の人間がチェックしながら作っていく方式に変えた。さらにクライアントや別部署の人間にも途中でチェックしてもらう。この「階段方式」で、無駄な作り直しを減らしていったのだ。すると、「作業時間が減ったにもかかわらず、営業利益、利益率が確実に右肩上がりで、効率が良くなったのが業績上も現れています」(領木)。

この日、クライアントとのパイプ役を務めるシステム営業担当の小山田多絵子が向かった先は不動産会社の大京。システムの納入先だ。以前はクライアントを訪ねるのは数ヶ月に1度だったが、今は2週に1度。開発の状況を報告しながら先方の要望もチェックする。大京の数原保一郎さんは「計画に則った仕事をしていこうと。お互い様で。我々の仕事のスタイルも変わったように思います」と言う。

クライアントが意識を変えた裏には、中井戸の常識破りの手紙があった。それは「弊社社員が休暇取得できるよう、ご配慮いただけますと幸いです……」というもの。社員に休暇を取らせるために、取引先にも協力を求めたのだ。

これを受け、大京ではSCSKへの発注の仕方を見直した。さらに、自分たちも見習って残業削減に取り組み始めたという。

「SCSKの取り組みもあって、残業が月20時間を超えていたのが最近は3分の1くらいになりました。これもSCSKとお付き合いをした成果の一つだと思います」(数原さん)



子連れ出勤もOK~注目の「ギフト」企業

「働きたい」と思える会社はSCSKのような大企業だけじゃない。東京・目黒区にあるソウ・エクスペリエンスは従業員40人のベンチャー企業だ。

この会社の商品はギフト。しかしギフトといってもモノではない。「体験」に特化した贈り物だ。1万円コースのカタログを見てみると、アウトドアスポーツに藍染めや織物など、もらった人は好きな体験を選ぶことができる。他に、エステやカフェだけを集めたカタログもあれば、ヘリのチャーター券53万円というのもある。

ソウ・エクスペリエンスの創業は2005年。販売数も右肩上がりに伸び続けている。このユニークなビジネスを作り上げた社長の西村琢は、急拡大中にもかかわらず、これまで人材確保に困ったことはないという。

「いろいろな働き方をOKにしているので、『あそこだったら働いてみたい』と思ってくれる人は多いんじゃないかと手応えはあります」(西村)

例えばこの会社は子連れ出勤がOK。社員・パートにかかわらず、子どもを連れてきていい。子どもの面倒を見ながら働けるし、保育所の費用もかからない。

2013年から始まった子連れ出勤。トラブルが起きないようさまざまな工夫もある。例えば階段を上がった部屋は子供禁制。集中して仕事がしたい時や、大事な電話をする時に使う。

もちろん働くママは大助かり。ある女性社員は、「子ども産んだ後に、なかなか保育園に入れなくて。働きたかったですし、子どもと1日中、家にいるのはかなり大変。外に出るきっかけができて良かったです」と言う。

仕事も育児も大人も子どももごちゃまぜ。それは会社にとってもメリットがあるという。

「子どもがどういうところに興味を持つとか、なんでそこに興味を持ったとか、観察していると気付きをもらえます」(西村)

一方、営業担当の畠田那穂はある働き方ができるために転職してきた。畠田は嘉悦大学でフードビジネスゼミの講師もしている。ソウ・エクスペリエンスでは副業OKなのだ。

「全然、違う仕事で大変じゃないか、忙しいんじゃないかと言われるのですが、両方とも好きなことなので」(畠田)

畠田はフードビジネスのノウハウを本業にも生かし、オシャレなカフェでのティータイムや泊まれる高級レストランの体験など、年間50本もの体験ギフトを実現させた。

「副業で出会う人、湧いてくるインスピレーションも無視できないと思います。そこで出会う人が違う形でソウ・エクスペリエンスの仕事に戻ってくることもいっぱいあるので、良いことだと思う」(西村)

~村上龍の編集後記~

「働き方」が、トピックスになっている。政府は「働き方改革実現会議」を発足させた。

信じられないような、長時間の残業で、心身を病む人、自殺者も出て、社会的な危機感が、生まれている。

今、残業は、生産性低下など、諸悪の根源のように言われているが、かつては常識であり、美徳でもあった。「残業」は、文化的な問題でもある。

「身を粉にして働き、自らを犠牲にして組織に尽くす」。いまだに美談だ。だから、残業を減らすのは、むずかしい。

重要なのは、忠誠心の利用・依存から抜け出し、「個別の信頼」を築くことかもしれない。

<出演者略歴>

中井戸信英(なかいど・のぶひで)1946年、奈良県生まれ。大阪大学大学院修了後、1971年、住友商事入社。副社長などを経て、2011年、SCSK社長就任。

西村琢(にしむら・たく)1981年、東京都生まれ。慶應義塾大学卒業後、2005年、ソウ・エクスペリエンス創業。