知られざる小池百合子~「東京大改革」新リーダーの次なる一手は?/読んで分かる「カンブリア宮殿」



注目の東京都知事に独占密着。その原点とは?

その「決断力」を評価する都民の声が圧倒的に多い東京都知事、小池百合子。

自宅は江古田駅に近い通称「エコだハウス」。環境大臣を務めた小池が6年前に建てた。省エネ、エコに配慮した暮らしを自ら実践するのが目的だという。

部屋の照明は全部LED。窓の外には「動く日よけ」が。冬は日光を取り込み、夏は熱を遮断するよう、角度が変えられるようになっている。こうした数々の工夫で、エアコンを使うことはほとんどないという。「自分で体感するのが、人に伝える際に説得力を増すと思いますので」と、小池は語る。

そんな小池の原点はテレビ東京にある。1988年4月にスタートした『ワールドビジネスサテライト』(WBS)。その初代キャスターを務めたのが、当時36歳の小池だった。

番組スタート当時の日経平均株価は、2万6000円台。まさにこの時、世はバブルの真っ只中。翌年には、3万9000円近くまで急上昇し、その後、弾けた。日本経済の絶頂と崩落を、小池は伝え続けた。

さらに1990年。イラクによるクウェート侵攻が始まると、小池はすぐさまイラクに飛んだ。実は小池はカイロ大学卒業。得意のアラビア語を武器に重要人物のインタビューを実現、世間を驚かせた。

小池を「キャスター」として見出した、元テレビ東京副社長で、WBSを立ち上げた当時の報道局長、池内正人が振り返る。

「あるパーティーで小池百合子を紹介された。で、彼女にその場で『やる気があるかい?』と言ったら、『ぜひやりたい』と。それで頼んだ」

それまでアラビア語の通訳やテレビ番組のアシスタントなどを務めていた小池。ニュースキャスターといえば男性が当たり前という時代に、果敢に決断した。

そうして飛び込んだキャスター人生だが、転機が訪れる。



キャスターから政界へ~小池百合子の「決断力」

92年5月、WBSは細川護煕氏をゲストに呼んだ。細川氏が「政治改革」を訴え、日本新党を立ち上げた時のことだ。この日は単にキャスターとして聞いていた小池だったが、それから1ヶ月後、WBSの放送を終えた深夜。小池は報道局長の池内とあるバーにいた。

「細川さんが日本新党を立ち上げて、彼女をもらいに来たんです。彼女は迷ったわけだよね。辞めるか辞めないか」(池内)

小池は細川氏から参院選出馬の要請を受け、揺れていた。

「『俺としては続けてほしいけど、どうする?』と言ったら、30分くらい彼女はすごく真剣に呻吟していた。最後に泣き出した。小池百合子が泣いた夜。そこで決断したんだよ」(池内)

その3日後、小池は「日本新党から参院比例区で出馬する意思を固めた」と発表した。

「彼女のいいところは、決断したらブレないこと。泣いたのが、それから30分たたないうちにケロッとして、店を出たら『やりますからよろしく』と」(池内)

番組に出演したことをきっかけに、参院選の候補者として小池に白羽の矢を立てた細川護煕元総理は、当時のいきさつをこう語る。

「ぜひ候補者になってください、新党を立ち上げて、今の政治をなんとかしたいと思っているので力を貸してほしい、と。なかなか度胸のある人ですよ。政治の世界に入るなんていうことは、自民党みたいな大政党に入るなら別として、どうなるかわからない話ですから」

参議院議員として政治家のスタートを切った小池は、細川連立政権が誕生すると、裏で細川氏を支えた。細川内閣の退陣後は、当時の永田町の実力者、小沢一郎氏のもとで新進党や自由党の結党に参加。仲良さげだった小沢氏とも、その後はたもとを分かち、最後は自民党へ。

「あちこちいくのは時の流れでよくあることだと思う。あってもおかしくない。政治的な勘はいいし、今、東京も豊洲の問題とかいろいろなことがありますが、なかなか“ジジ殺し”も上手。バランス感覚もいいし、落し処も心得ているから上手く落ち着かせるでしょう」(細川氏)



知られざるエピソード~小池百合子、80年代の大仕事

そんな小池は、知られざる大仕事をやってのけていた。

30年前の新聞に、「国名を変なフロに使わないで」という記事がある。トルコ人留学生が世間に訴えた、いわゆる「トルコ風呂」騒動だ。

80年代、日本の性風俗の代表格だった「トルコ風呂」。男性客が女性から性的なサービスを受ける店だが、トルコにはこういう風呂は存在しない。トルコ人青年のヌスレット・サンジャクリさんは、風俗店にトルコの名前を使わないでほしいと呼びかけた。そこに現れたのが小池だった。現在はトルコに戻り、日本語の教師などをしていたサンジャクリさんは語る。

「彼女は中近東の専門家です。中近東の国の国民の気持ちがよくわかる。キャンペーンをしましょうということで、この問題の解決のために小池さんが入りました」

小池は新聞社やテレビ局にこの問題を取り上げるよう掛け合った。さらに当時の厚生省に乗り込み、大臣に直談判。1983年、第二次中曽根内閣で厚生大臣に就任した、「平成の黄門様」こと、元衆議院副議長の渡部恒三氏が振り返る。

「厚生大臣に就任し、最初のお客さんだった。『日本中でトルコの名前が出ているが、これはやめてくれ』と。まさにその通りだから、『わかった。その通りだ。1か月以内に日本中から全部、妙な場所でのトルコという名前は無くします』と約束した」

渡部氏はすぐさま「トルコ」の名前を使わないよう業者を指導。小池の決断と行動で、日本中から「トルコ風呂」という呼び名が消えたのだ。

「僕の気持ちは温かくなった。喜びました。トルコで一番知られている政治家は小池さんですよ」(サンジャクリさん)

「なかなかその時からしっかりしていた。僕は彼女が大臣になると、その時、断言したよ。彼女の政治家としての資質を最初に認めた男かもしれないな」(渡部氏)



石原慎太郎氏との因縁も~退路を絶ってきった劇的半生

小池百合子は1952年、兵庫県芦屋市に生まれた。父・勇二郎は石油卸会社を経営。仕事がら国際情勢に敏感だった。勇二郎はエネルギーの安全保障を、幼い小池に説き続けたという。まだ石油ショックの起こる前のことである。

やがて勇二郎は政治活動に入れあげるようになり、ある男を支援した。それが石原慎太郎氏である。そしてその石原氏に担がれる形で、1969年、なんと勇二郎自身も衆院選に出馬してしまった。

だが、あえなく落選。そんな奔放な父を支えたのが、母・恵美子。小池はこの母から、大きな影響を受けたという。「結婚を人生の目的にしちゃダメ。いつでも自分の足で歩けるようにしておきなさい」という母の言葉を、小池は胸に刻んだ。

そんな両親の元で育った小池は大学生の時、大きな決断をする。1972年、エジプト・カイロ大学への入学だ。このとき小池は、関西学院大学を休学するのではなく、あえて中退して単身カイロに渡った。その理由を著書にこう記している。

「戻る場所があると、自分が甘えるのではないか。……だから、退路を絶ちたかった」(『自宅で親を看取る』幻冬舎)

退路を断つ。この覚悟は、小池の政治人生の勝負どころで何度も発揮されてきた。2005年の郵政選挙。自民党所属となっていた小池は、小泉総理の「刺客」として、東京の選挙区で立候補。地元兵庫の地盤を手放し、退路を絶って臨んだ結果、見事当選した。

今年の都知事選出馬でも、小池は「崖から飛び降りるつもりで、出馬を決意しました」と語っている。退路を断つ。これが小池の生きる道だ。

スタジオで小池の人生を振り返っているとき、村上龍が思い浮かべた言葉があった。「ファーストペンギン」。群から最初に海に飛び込むペンギンのことで、リスクを負って挑戦することのたとえだ。そんな印象を伝えると、小池は次のように語った。

「そうですね。きっとこうなるだろうなと将来の世界を予測して、まだ誰もやっていないことにファーストペンギンになって飛び降りる。マーケティングで使われる言葉ですが、このときは『ブルーオーシャン』(競争のない新しい市場)なんです。他に誰もいない。だだいたいみんな同じことをやって、価格競争をしてヘトヘトになるのが『レッドオーシャン』(競争の激しい既存市場)ですが、レッドオーシャンでもみくちゃになるより、私はいつもブルーオーシャンを目指して最初に飛び込んでしまう。そのうちブルーオーシャンも赤く染まるときがくるので、また別のブルーオーシャンに行く。いつまで続くかわかりませんけど」



豊洲市場はどうなる?~東京大改革の行方

オリンピックに続いて、パラリンピックでもリオデジャネイロに赴いた小池。熱戦が繰り広げられる会場を見て回った。多忙なスケジュールの中、4日間滞在。時の人、小池を追って、日本から多くの取材陣が殺到していた。「あとたった4年。いろいろな経験値を有効活用したいと思います」と、小池。食事の最中にもタブレット端末を取り出して気になる競技をチェックする。

そのころ地球の裏側では、豊洲市場問題が大変なことになっていた。建屋の地下に広がる空洞。盛り土をする計画がいつ、どういう経緯で変更されたのか。事態は日々動いていた。リオの小池は都庁などと頻繁に連絡を取っていた。

9月21日。帰国した小池を待ち受ける難問は他にもいっぱいある。

課題1、オリンピック予算の適正化。当初7300億円程度だった大会費用はいつの間にか2兆円、3兆円にも膨らんでいるとか。これを検証するのが小池の仕事になる。

課題2、待機児童の解消。空き家を保育所にするなどの対策を掲げた。

課題3。給与・報酬問題 。手始めに知事給与を半減するとぶち上げた。

だが、こうした改革を進めるには、大きな壁を越えなければならない。それが都議会だ。しかも敵は、野党よりも、小池も所属する自民党の都議会議員。

番組では都議会議員127人全員に、豊洲市場をどうすべきかについてや、小池が打ち出したオリンピック予算の透明化、知事給与の半減、待機児童対策などの改革案を支持するかどうかについて、FAXで回答を求めた。

豊洲市場については「安全性が確保されるまで延期」と答えたのが公明党や民進党など。共産党などは「移転を中止して別の施設に」と回答。中には「スーパーにしたらどうか」という意見もあった。

また、小池の「オリンピック予算の透明化」という方針や「知事給与半減」「待機児童解消プラン」については、回答した多くの議員が「支持する」と回答した。

一人一人が回答する中、最大会派自民党だけは、60人分がたったの1枚で送られてきた。そこには「ご質問頂いた各課題については、現時点で小池知事から議会に対し、事前の説明や報告はありません。従って、各設問にはお答え致しかねます」と記されていた。

 議会運営は大丈夫なのか。スタジオで小池はこう答えている。

「議会も適切に対処されると思いますけど。だって私も都民の代表だし、都議会議員の皆さんも都民の代表。違う都民だとは思いませんから」

~村上龍の編集後記~

都知事は、スタジオのメイクルームで、昔なじみのヘアメイクさんとうれしそうに言葉を交わし、収録では、番組へのサービスもあったのか、何度か都政を企業体に例えた。

「企業も同じだけど、成功体験に依存するとだめになるでしょう?」

だが、政治と企業活動には明確な違いがある。企業には利益が必須だが、政治の役割は適正で冷徹な資源配分である。

逆に共通するのは説明責任を含む公正なガバナンスだ。

リスクを自覚し、誰よりも早く崖からジャンプする「生来のファーストペンギン」の小池知事には、その充分な理解があると思いたい。

<出演者略歴>

小池百合子(こいけ・ゆりこ)1952年兵庫県生まれ。1976年、カイロ大学文学部社会学科卒業。1988年、テレビ東京『ワールドビジネスサテライト』初代キャスターに。1992年、日本新党から参院選に立候補、初当選。1994年、新進党結党に参加。2002年、自民党入党。2003年、小泉内閣で初入閣、環境大臣就任。2007年、女性初の防衛大臣就任。2010年、自民党総務会長就任。2016年、東京都知事選に立候補、当選。