劇場版『機動戦士ガンダム』Last Shootingの輝くまで 第12回

第12回 富野監督の編集マジックと「映画にする」という意味

 TVシリーズのフィルムを使って再編集を行い、映画館へかける。この興業形態は別に『機動戦士ガンダム』が最初ではないし、古くからあるものだ。1964年には『鉄腕アトム 宇宙の勇者』として3本のエピソードを再編集して映画化したという事例があり、初の国産30分シリーズTVアニメ『鉄腕アトム』からすでに行われていたことだった。

 TV版のフィルムを30分(CM分含み)の構成のまま流してしまうと、物語と感情の流れがその中で閉じてしまう。それを連続してつないだものは、厳密には映画とは言いづらいが、「オムニバス短編」と解釈されたのだろう。以後も「東映まんがまつり」「東宝チャンピオンまつり」などの形態で、TVのフィルムを劇場にかけることがひんぱんに行われ、「混載興行」などと呼ばれていた。

 これが1977年に『宇宙戦艦ヤマト』が劇場映画として公開され、大ヒットしたことで、少し事情が変わってくる。これはTV版全26話を使って描いてきた「一連の長い物語」を2時間あまりに再構成したものだからだ。ヤマトがヒットしたことで、さまざまなTVアニメ作品が劇場映画化されていくが、大半は「ダイジェスト版」または「総集編」と呼ばれていた。「ストーリー」「イベント」中心に全体から重要なパートを抜き出し、不要部分を削って圧縮、さらにセリフの一部変更によって削られた部分のつじつまを合わせていく。単に濃度を上げて手短に語るという姿勢でまとめていくため「ダイジェスト版」と呼ばれ、決していい意味ではなかった。

 『機動戦士ガンダム』も大枠としては「TVで受け入れられた内容をそのままファンと新しい観客に提供する」という目的を重視し、「総集編」のスタイルをとっている。ただし、それまでの「単なるダイジェスト版」とは一線を画した思想と手法を入れようと努力もしている。それは富野由悠季監督が「映画にしたい」という強い意識をもって制作にあたってきた姿勢の結実と言える。

 もともとTVシリーズは全体の制作コストやスケジュールの事情で、「総集編」を入れるケースが多い。『ガンダム』の前番組にあたる作品群でも、たとえば『無敵超人ザンボット3』('77)では第20話「決戦前夜」、『無敵鋼人ダイターン3』('78)では第13話「前も後もメガ・ボーグ」、第34話「次から次のメカ」と、フィルム流用による「総集編」が作られている。

 ところが富野監督はこれらの作品で、単なる流用、ダイジェストを超えた奇跡的な編集術の冴えを見せ、ファンを驚かせた。戦闘シーンこそ大半は流用だが、必要最低限の新作画を加えることで「新しい物語」に組み替え、編集後にひとつの「世界観」を宿らせているのだ。フィルムに新たな意味性をもたせるこの独特の編集術は「富野マジック」とも呼ばれて、ファンから賞賛されるようになる。

 『機動戦士ガンダム』劇場版が「映画」として成立しているとしたら、こうした事例と同じ発想が盛り込まれているからに他ならない。

 なぜそのように「新たな意味」を発生させることが可能なのだろうか。それは、日本大学芸術学部映画科出身の富野監督が、映画の基本である「モンタージュ理論」の特性を熟知したうえでその技法を徹底的に駆使し、編集に臨んでいるからである。

 「モンタージュ理論」とは旧ソビエト連邦の映画監督セルゲイ・エイゼンシュテインが確立したもの。その代表作『戦艦ポチョムキン』('25)では「オデッサの階段」と呼ばれる殺戮シーンに、乳児の乗る乳母車が階段を転がる映像が編集でインサートされる。そのとき、観客は脳内で「つながっている理由」を想像するが、その想像力が「殺戮の残虐さ」という、本来は乳母車単体にはなかった「意味」を発生させる。

 このように素片と素片を足したときに、元来備えていない意味を発生させるのがモンタージュである。これを四則演算にたとえて「かけ算」と表現することがある。つまり意図のないカットを積み重ねた編集は「足し算」に過ぎず、全体から不要部分を削ったダイジェストは「引き算」に過ぎない。「かけ算の編集」はこれを超えるものなのだ。

 劇場版『ガンダム』では、こうした組み替えは物語構成レベルと、フィルムのカット編集レベルの両方で行われ、相互に作用している。構成レベルでは主要エピソードのいくつかを順序を変えて合体し、割愛された話数でも使える映像は別の役割で使い、複数の話数にまたがるフィルム素材を吟味して組み合わせ、別の意味をもたせたりしている。

 例として、劇場版第1作で「戦いに疲れたアムロが空中戦を敢行して周囲を驚かせる」ブロックを検証してみよう。本来これはTV版第9話にあるエピソードだが、劇場版では主に第6話と合体させ、北米大陸を制圧したガルマ部隊との「激戦に次ぐ激戦」という迫力をボリュームアップしている。

 まず、その直前のエピソードである第5話「大気圏突入」の流れからこのブロックに入るときに、第6話のラストからアムロが疲弊したカットを先に持ってきている。本来は初の地上戦を経験したアムロの疲れ具合を、大気圏突破によるものと読み替えているのだ。続くジオン軍によるホワイトベース襲撃は第6話と第9話を合体し、空(戦闘機ドップ)と陸(戦車マゼラ・アタック)からの両面作戦の厚みをつけている。

 これに対するガンキャノンによるカイ・シデンの初出撃は第8話からの流用で、本線であるアムロとブライトのいさかい(第9話)にこうしたシーンを多数付加することで、言い争いとホワイトベースの危機と両方の緊迫感を増し、第9話クライマックスのガンダム空中戦の爽快感をボリュームアップしている。鬱屈したストレスが強いほど、それが解放されたときのカタルシスは大きいという、そんなバネのような原理も使っている。そしてコムサイから降下するシャア専用ザクとの戦いを第7話のフィルムで表現し、アムロとシャアライバル同士の戦いが、この大きなブロックの結末を締めくくっている。

 実際にはもっと複雑なカット構成が使われ、モンタージュ技法を駆使して「新たな意味」をもたせている。新作カットも目立たせるように置いているわけではなく、こうした複雑多岐にわたる組み替えのための接着剤、ないし補強剤の役目をはたしているわけだ。

 第1作目はおおむねTVシリーズの内容に準拠していたが、第2作目「哀戦士編」でこの編集によるダイナミズムは最高潮に達する。まるで話数の違う映像をさらに複雑に組み上げたことで、「富野マジック」はまた一段と凄みを増したのである。

 もともと「映画」とは別々の場所や時間で撮影されたり、まったく設計されていない動きが写った映像を吟味し、ピークとなる瞬間を切り取り、カッティングのリズムによって意味性や感性を編み上げていく芸術である。『機動戦士ガンダム』はTVシリーズのときからそういう映画的志向の強い作品であったが、劇場版ではその編集術はさらにパワーアップしている。

 さまざまなフィルムをモンタージュして新たな時間と空間を構築していく「富野マジック」には「映画の根幹」を考えるヒントが隠されているに違いない。ぜひそういう観点でも、劇場版『ガンダム』3部作を堪能していただきたい。(文中:一部敬称略)

【2007年12月20日脱稿・2017年6月18日加筆】初出:劇場版『機動戦士ガンダム』公式サイト(サンライズ)