『true tears』論

題名:青春の感情を結晶化した作品

 何のために映像作品を観るのか、アニメを鑑賞するのか。

 普通はそんな細かいことは考えなくてもいい。娯楽なのだから、小うるさい理屈は不要。セオリーに合致してるかどうか念頭に置きながら、プラスアルファの感動が得られるかという程度の判断で充分だ。情報過多の時代、受容を簡便化するために人は枠を作りあげる。ジャンルを規定し人物は「キャラ」として識別しやすく仕立てられ、ドラマもあらかじめある期待感を満足させるように仕組まれ、スタッフもキャストも製作会社もすべては「属性」「データ」として扱われ、パッケージ化されて流通する。

 だが、そんなカラクリだけでは決して済まなくなるようなフィルムがある。届けられた気持ちの昂ぶりが既成概念をオーバーフローさせて、秘めたる感情のもつれを解放してくれる。それだけが本来は「作品」と呼ばれるべきなのだが……。

 本作『true tears』では、富山県に住む男子高校生・仲上眞一郎と3人の女性、湯浅比呂美、安藤愛子、石動乃絵の恋愛感情に、さらに野伏三代吉、石動純とふたりの男性を絡めたドラマの錯綜が描かれている。幼なじみ、兄妹、同居人といった定番の人間関係に対し、「涙をなくした」という不思議な少女・乃絵がズバリ人の本質をつくようなトリックスター的な言行で介入することで、その錯綜は激しく動き出す。そんな思春期特有の人間模様と感情の揺れを、あるときはユーモラスに、あるときは切々と描いた青春群像劇の手触りは、間違いなく「作品」と呼ばれるにふさわしい風格を備えている。

 日本の伝統を今に残す懐かしくも美しい北陸の風景の中で、生煮えの気持ちが絡み合い、かりそめのカップルが出来ては消えかけ、また新たな関係が生まれる。感情のゆらぎが波のように重なり、高まりあいぶつかりあい、時には打ち消しあって、やがてひとつ大きな全体像を生み出していく。登場人物の言動・映像からは、まるで目が離せない。あらゆる事象に深い意味性を覚える独特の緊張感。その中から心の壁を越えて迫ってくるものが感情の揺れをともなった体感に転化し、やがて感極まる。その感興を言葉にしたとたん、積層となった人の機微すべてが、もろくも壊れてしまうかもしれない――そんな繊細な結晶構造をもっている、淡雪のように綺麗で純粋な情を中心に据えたフィルム。

 だから、その情を理の言葉で解説することにも限界がある。ただし、限界があるからこそ、あえて語りたい気持ちも同時にかきたてられる。その衝動は届けられた気持ちが確かである証拠に違いない。だから、ストレートに言葉にしにくい限界領域にこそ、真実がかいま見えるはずだ。だから、手探りの言葉による確認をもう少し重ねてみよう。

 「嬉し恥ずかし」という言葉がある。死語かもしれない。だが、私にとっては思春期特有に生じる異性との感情の一連は、この言葉に直結している。「甘酸っぱい感情」という表現もあるが、嬉しさは「甘い」、恥ずかしさは「酸っぱい」と置換可能だから、青春の本質はここに絞りこめる。

 これは「萌え」の概念とは重なりつつも、微妙に一致しない。その差の鍵は「恥」の概念だ。「萌え」の語源は誤変換だが、「萌え=発芽」は「季節がめぐれば新しい生命の発露は当然」というニュアンスを含む。それでは全肯定的に過ぎるのではないか。日本人なら「秘める感性」が欲しい。「恥」の気持ちがあってこそ生まれるバランスがあるはずだ。

 たとえば本作の中でも、湯浅比呂美が一人暮らしを始めたときにメガネをかけて驚かされるシーンがある。仲上家から出た彼女は、成績優秀の属性を獲得して「メガネっ子」になったのか。絶対にそうではない。そこに彼女が眞一郎と同居していた時期、「メガネ」に抱いていた「羞恥心」が観てとれるからだ。理由は言葉になっていないため「?」という疑問が観客に生じ、そして自分で回答を見つけたときの「!」という感覚は深い共感の触媒となって、彼女の想いは興趣とともに腑に落ちる。これはそういうフィルムだ。

 彼女が羞恥心を感じる理由も、恋愛ものに使われる「フラグ論」をとれば答えはひとつにまとめられる。だが、そんなに簡単にまとめて良いものなのか。感情の問題とはそれほど一様ではない。観客に提示された別のシーンを重ねることで、気持ちの「ゆらぎ」も見えてくる。かつて仲上家にいた時期、比呂美が屈託のない笑顔を見せた珍しい瞬間がある。洗面所で洗顔剤と歯磨き粉を間違えた眞一郎を目撃したときだ。そして、それをケータイで撮ったときの写真が、彼女の一人暮らしの支えになっている描写が重なる。

 自分の失敗は「恥」のはずなのに、逆にそれをとびっきりの笑顔に変えてしまうような眞一郎。だからこそ、比呂美の想いは幼いときから揺れ続けてきた。引きつけられるものがあればあるほど、それは逆に内心をさいなむ気持ちに転化しかねない。「恥」の概念とはそんな外が内に向かう矛盾、取り返しのつかない後悔、あるいは諦念や慚愧のような苦みも含んでいる。しかし、そうして抑えて秘めて内圧を高めることで、その心情は純化される。それが日本の古典的な「和」の美意識だ。

 それでもなお抑えきれない「喜び」がある。感情の発露が、やがて訪れる。そうしたものすべてを含んだ「嬉し恥ずかしい気持ち」こそが、子どもでも大人でもない端境期の「青春」だけに存在する特有の感情の正体なのだ。『true tears』で明確に描かれているこの気持ちのプロセスは、だからこそ美しく貴重だと言える。

 集団作業を基本とするアニメーション表現は、実はこうした繊細な心情を描く目的に対して適性に乏しい。量産のための「デフォルメと省略」を是とするため、感情もある程度抽象化したかたちでしか伝えられない。ところが、その類型化が瞬時にして全体の繊細さを破壊しかねないのである。『true tears』はそのリスクを総力戦的な懸命の努力の集積で乗り越えようとしている。そこも美しく貴重な注目ポイントだ。

 一瞬の変化が感情の機微の表現に転化するような効果を狙った場合、その一瞬自体よりもそこに至るまでの積み上げ、プロセスの方が重要になる。緊張感あふれるフレーミングによるレイアウトの連続や、長く続く切々たる音楽のつけ方、空気感や鳥の声などアンビエントを重視した現実音で「場」そのものの実存を持続させ、時間変化や気象も含めた風景、そこに見え隠れするほのかな光と陰影にこそ想いの真の姿を託そうとした演出の姿勢は、まさに「和」なアニメ作法の頂点であり、奇跡のような結晶なのだ。

 どういう視線と想いをこめてスタッフが画を作りこんでいるか、どんな風にドラマの心情に寄せて登場人物を見守っているか。答えはすべて映像にある。その面白さを極めるために、とにかく何度も観返してほしい。問いかけさえすれば、そのつど新しい発見が出てくる。そういうレベルの仕掛けになっている。本来、フィルムで描かれるべきドラマは、そんな風に一見では見落とすぐらいの芳醇な情報量に支えられるべきものである。

 映像と言葉(=論理)と心情、すべてが絡み合った三重構造。しかも何階層にも意味と意図が積み上げてあるからこそ、全体としての「心の強度」が獲得できる。だからこそ、本作はドラマの密度とともに、誰の心にも伝わる先鋭さを獲得しているのだ。

 なぜここまで秘匿性をねじらせて積み上げることが必要なのか。答えは述べたとおり。恥ずかしいから。シンプルな言葉に置き換えたとたん、消え失せる感情の機微だから。その複雑性があってこそ人間だから。それはいつか大事な人と想いと生活をともにしつつ進んでいくために、どんなことをしてでも知っておかねばならない人生の真実でもある。

 人が新たに生まれ続ける限り、永遠に訪れ、通り過ぎていく「青春の一瞬」。未来へつながる貴重な人の輝きを『true tears』は描きぬいた。観客自身の心情を映し出し解放する触媒として、永遠に繰りかえし観られ、愛され続けて欲しい作品である。

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【BONUS】文字数オーバーのためカットしたパーツ。

 特筆すべきは暗喩の深さである。どれくらいスタッフが精緻に画面を作りこんでいるのか、それだけでも充分に重みが伝わってくる。たとえば野伏三代吉が安藤愛子との関係に悩みつつ、黒板で方程式に取り組んでいる本筋と一見関係ないシーン。ここで板書されているのは、虚数方程式だ。つまり「虚数=I」が記されていて、そのココロは「愛(アイ=I)は虚数だった」という意味である。問題はまさに「恋に恋し、愛に愛する」という虚構なのであって、気の毒な男子はその方程式が解けない。悲哀とユーモアを映像にこめて語るというのはこういうことだ。

 これは決して偶然ではない。謹慎中の比呂美に眞一郎がノートとる回でも「方程式」が使われている。ここには集合の論理式「ド・モルガンの法則」が使われていた。これも「AとB」がカップルの意味であり、バーがついた状態が「否定」を現すという風に読めば、登場人物のカップル状態の否定、個々人の自己否定の状態を意味するものと読み取れる。

 もちろん方程式は物語の表層的には何の意味ももっていないが、しかし本作の映像全体はあらゆるところで超言語的な意味を伝えようとしている。やり直すことになった2人が店に入ったとたんに「準備中」の札が「カラン!」と落ちるとか、雪を関係性を阻む冷たいモノととらえ、一度はその雪から逃げ出した比呂美が内心で何かを乗り越えると、自力で雪かきしてるなどなど、事例は枚挙にいとまがない。

【2008年7月15日脱稿】初出:ムック『true tears memories 別冊アニメディア』(学習研究社)