劇場版『機動戦士ガンダム』Last Shootingの輝くまで 第6回

第6回 どうまとめた? 劇場版『機動戦士ガンダムⅡ 哀 戦士編』(その1)

 パート1からわずか三ヶ月後に上映されたこの作品。メインタイトルには晴れてローマ数字の『Ⅱ』が入った。

 サブタイトルの有無に関しては論議があり、最終的には富野総監督の名づけたこの造語が適用される。ここにも紆余曲折あったことが当時のエッセイに綴られている。結果的に表記にはバラつきが生じてしまい、商品としての名前には「哀・戦士編」とナカグロが入っているが、ここではフィルム上の表記にしたがって半角スペース空きの「哀 戦士編」と表記することにする。

 「哀 戦士編」では、TVシリーズ第16話「セイラ出撃!」から第31話「ザンジバル、追撃」の冒頭にあたる映像までを映像素材として使用している。第30話は引き続き第3部「めぐりあい宇宙(そら)編」にも使われているため、エピソードの途中で「ホワイトベースが宇宙へ出るところまで」という「物語構成としての区切り」でまとめられている。

 この大胆な措置が象徴するように、この第2部ではTVシリーズに忠実だった第1部と違って、かなり思いきった構成上の変更が行われ、印象が刷新されている。第1部で設定紹介が済んでいること、第3部のように明解な終幕が必要ないこと等、「三部作(トリロジー)の中間」は自由度が高く、ガンダム以外でも印象に残る映画が多い。

 全体は地上へ降りたったホワイトベースが、連邦軍とジオン軍の決戦となるオデッサ作戦を経て南米にある地球連邦軍本部ジャブローへたどりつくまでの「地上放浪編」とでも呼ぶべきブロックに該当する。そして大きく話数順序を入れ替え、いくつかのイベントを複合させて濃縮するという荒技を見せることで、映画としてのダイナミズムが獲得された。

 その構成の変更は、ドラマ的にはアムロの体験する青春時代特有の感情の揺れ、周囲の状況に翻弄される感覚を強く打ち出すことにもつながった。戦場に生身で出たアムロは、ランバ・ラルを筆頭に次々と人との出逢いを体験する。それを通じて自らの人生の先に待つものを見いだし、自分の未熟さに苦悩する。そうしたさまざまな葛藤は、古典的には「疾風怒濤」や「青春彷徨」などと呼ばれている体験と同じものである。

 さらにこの第2部は、ランバ・ラルとハモンをはじめ、リュウ・ホセイやマチルダ・アジャンなど、戦場の中で非業の死を遂げる主要人物が多いのも特徴だ。カイ・シデンとミハル・ラトキエの淡い悲恋や、マチルダの婚約者ウッディ大尉の死まで組みこまれているため、全体では「男女の愛または仲間のために死にいく戦士たち」が多数描かれ、主題歌の歌詞にも反映されている。

 ところがこの映画が製作された1980年代初頭、「劇場用映画のキャッチコピー」として「愛」という単語が安易に使われることが非常に多かった。その傾向への皮肉もこめ、富野監督は音の同じ「哀」という言葉を採用した。いずれにせよこの映画では、そうした死と隣り合わせになった戦場という極限状態の中で各登場人物の心のゆらぎが点描されることで、独特の「群像劇」的な味わいが発生。限られた時間に濃縮されたことでTV版よりも強くそれが伝わってくる。

 メカファンに対する大きなみどころとしては、劇場版用にデザインされたコア・ブースターの登場が挙げられる。これはTV版ではガンダムの商業的強化案として用意されたGメカ(Gアーマー、Gファイター、Gブル、Gスカイ)をよりリアルに位置づけ直したものだ。翼を折りたたんだコア・ファイターにブースターをつけるという簡易なデザインではあるが、「新メカ登場」は大きな話題を呼び、また「劇場版独自ルートをたどり始める」という印象を生んだ。

 クライマックスでは、第1部で姿を消したシャア・アズナブルがアムロの前に再び立ちはだかり、物語全体の到達点が「二人のライバル関係の決着」であることを予感させて、映画は終わっていく。まさしく劇場版三部作の「カナメ」と呼ぶにふさわしい印象を残しているのは、そのためである。

 では、TVシリーズとの具体的な差異点について以下に順次述べていこう。

(1)新作によるマ・クベ鉱山とビッグ・トレー

 アバンタイトル(題名の前に流れるシーン)は第1部同様、一年戦争の発端の概説から始まるが、ニュータイプの解説とガルマ・ザビの死が加わっている。

 タイトルバックは、砂嵐に包まれたジオン軍のマ・クベ司令配下の鉱山とダブデ陸戦艇。完全新作のゆったりした尺が、「これまで見たことのない展開」を予感させる。第16話のランバ・ラル隊との関係解説を交えつつ、ジオン軍側に内在する微妙な覇権争いと軋轢をほのめかしている。同時に地球連邦軍がすでにビッグ・トレーを移動本部として動き出したという、1作目以後の時間経緯が描かれ、今回の映画では「オデッサ作戦」が描かれることを暗に示している。ここではレビル将軍がニュータイプ部隊としてのホワイトベースに注目していることなども明示されている(TV版ではマチルダの言葉のみ)。

 ここまでで、実写映画で言う「追撮(追加撮影)」に相当するカットが多く埋め込まれている。雰囲気重視の新作の演出方針から、映画としての方向性が違うことがイントロ時点で強く伝わってくる。

(2)セイラ中心の作画修正

 「哀 戦士編」で使われたTV版素材は、結果的に安彦良和アニメーション・ディレクターがもっとも手を入れていたブロックに相当する。そのため新作カットの入れ方も細部の修正というよりは、整合をとるための完全新作やトーンを整えるためのものが多くなっている。

 中でもセイラに関しては、富野監督がこだわって修正したと思われる。第16話のセイラによるガンダム出撃シーン、第24話以後のGファイターからコア・ブースターへの置き換えシーンともに、関連するコクピット内のセイラが全面的に描き直されている。高貴な生まれのセイラの美しさがより強調されて伝わることで、映画全体の品格が微量なりとも上がって見えてくる。

(3)挿入歌「風にひとりで」独特の使い方

 第16話、第17話と兄の情報欲しさに独断専行してガンダムを出撃させ、独房に入れられる等、「セイラの物語」がしばらく続く。後にコア・ブースターに乗ることになるセイラのパイロットとしての適性や、ジオン兵コズンの脱出劇に織り交ぜられた会話情報など、伏線にもなっている。一方、自信をつけすぎたアムロはブライトの命令違反を犯し、ガンダムから降ろされそうになる。この一連の展開は作画含めて、ほぼTV版のままだ。

 第18話で脱出したアムロがマ・クベ鉱山を発見し、アッザムと闘うエピソードは丸ごとカットされた。第19話とのつなぎにアムロがガンダムを熱砂に埋めるシーンが新作で入るが、ここで井荻麟:作詞/井上大輔:作曲の挿入歌「風にひとりで」がアムロの孤独な雰囲気を盛りあげる。第19話相当のアムロとランバ・ラルの出逢いと交戦は、ほぼTV版のまま。

 ここでアムロがセイラに代わって独房に入れられたことで、TV版では第20話になって嫌気のさしたカイやハヤトたちまでもが脱出。ホワイトベース内は人心の面から崩壊の危機にさらされるが、その部分は大胆に割愛されている。

(4)オデッサ作戦の準備動作

 ランバ・ラルが白兵戦を決意するのと平行し、オデッサ作戦のための配備が進行する。キシリアの差し金でドムの配送先が変更されて「黒い三連星」ごとマ・クベに届く場面、マチルダがレビル将軍からガンダムの強化メカ(コア・ブースター)の搬送を敢行するシーン(第23話)が前倒しでインサートされている。レイアウトごと新作となったカットが加わることで、印象が大きく刷新されている。(文中:一部敬称略)

(「その2」につづく)

【2007年9月3日脱稿・2017年6月15日加筆】初出:劇場版『機動戦士ガンダム』公式サイト(サンライズ)