デパート物産展で大旋風~100億円売る北の絶品菓子
全国の百貨店で開かれる人気の集客イベントといえば、北海道の物産展。名古屋市の「ジェイアール名古屋タカシマヤ」で開かれていた物産展。絶品づくしの北の味わいの中に、店舗を幾重にも囲む大行列の店があった。「北菓楼」というお菓子屋さんだ。
「北菓楼」の一番人気は試食に人があふれる「開拓おかき」(441円)だ。北海道で獲れた8種類の海の幸で味付けしてある。どの味にも魚介の身の部分がたっぷり入っていて、珍味としても最高。週末の2日間だけで3000個を売ることも珍しくないという。
大人気の「北菓楼」に、お昼を過ぎるとある商品が運び込まれた。朝、北海道を発って空輸してきたばかりのシュークリーム「夢不思議」(3個入り、540円)だ。新鮮な牛乳をふんだんに使った、自然の甘みがとろける逸品。「北菓楼」は甘いスイーツでも圧倒的人気なのだ。
北海道内に9店舗あるうちのひとつ「北菓楼」小樽本館。客で混雑する店内に運ばれてきたのは、贅沢に切った試食用の「バウムクーヘン妖精の森」(5個入り、699円)だ。病み付きになるしっとり感で、大人から子供まで引っ張りだこの人気商品。さらに年間3000万個を売るのが「とうきびチョコ」(360円)。トウモロコシの甘さをそのままお菓子にしたサクサクの食感がファンを掴んでいる。
それにしてもおかき、シュークリームから和菓子、フランス菓子と、「北菓楼」は驚くほど幅広いジャンルの菓子を手がけている。そしてどの商品も食べる人を笑顔にする。
「北菓楼」の本拠地があるのは札幌から車で1時間半かかる砂川市。かつては周辺にあった炭鉱で賑わったが、現在の人口はピーク時の3分の1近くに落ち込み約1万7000人に。そんな町の外れに本店がある。
その店内で、試食をする客をじっと見つめている男がいた。「北菓楼」を経営するホリホールディングス社長の堀昭(64歳)。客が口にした瞬間の表情が常に気になると言う。
「笑顔になるか、首をかしげるか、その状況によって商品改善の勉強になる。試食していただいて『美味しい』と言っていただくと嬉しいですね」
饅頭、煎餅、和菓子を作る工場、おかき専門の工場と、堀はヒット商品が生まれるたびに工場を建ててきた。そのひとつ、洋菓子工場を訪れた堀は、真っ先に「生クリームは北海道産を使っています」と言った。
バウムクーヘンの原料の小麦粉やバターも北海道産。そしておかきの原料の餅米も北海道産。ほとんどの原料が北海道産なのだ。
記念日用のアップルパイ「贈り鯛」(1620円)に使われるリンゴも北海道産。リンゴと言えば青森だが、北海道にも余市というおいしいリンゴの産地があるのだ。リンゴ農家の山田晃弘さんは「余市でリンゴが作られていることを知らない道内の人も多いので、いいと思います」と言う。
堀は徹底的に北海道産の原料を使うお菓子作りにこだわってきた。ホリが使う北海道産の原料は、乳製品や小麦粉を含めれば実に30種類以上にのぼる。
北海道で大躍進の人気菓子~笑顔を生む原料の秘密
砂川にあるホリ本社から車で5時間の襟裳岬。堀はすばらしい味わいの産品があると聞くや、それで美味しいお菓子が作れないかと、道内を飛び回ってきた。
「北海道にはいろいろな素材がいっぱいある。海にも山にも酪農にも。面白い食べ方もまだまだいっぱいあるんです」
堀が襟裳で見つけたのは、あたり一面に生え、手作業で取る絶品の昆布。昆布漁は、竿一本で水中に生える昆布を手作業で引き上げていく。昆布に腕を取られる、かなりの熟練作業だ。北海道には様々な昆布の産地があるが、堀はおかきにぴったりな襟裳の昆布を探し当てた。えりも漁協の神田勉さんは「他の場所の昆布と比べると、襟裳の昆布は幅が狭くて身も薄く、甘味が弱い。『北菓楼』さんのおかきには最適だと思います」と言う。
そんな産地の美味しい原料を、ホリは手間ひまかけて商品にしていく。砂川市のホリ第5工場。炊き上げた北海道産の餅米に、昆布や帆立などの素材を加工して練り込み、つき上げていく。出来上がったお餅は、特殊な方法で5日間寝かせ、食感良く揚がるように丁寧に乾燥させる。そして作り始めから7日後、最高の形で水分が抜けた餅をカリカリに揚げて完成する。こうして出来上がるのが「開拓おかき」でも圧倒的な人気を誇る「えりも昆布」。絶妙の風合いの塩気に、ぱりぱりの昆布が病み付きになること必至だ。
そんなホリのお菓子のヒットは、生産者も笑顔にしていた。昆布漁師の平野正男さんは「ありがたい。自分たちの手をかけたものが全国で愛される。仕事をする者としてそれ以上の喜びはない」と言う。
実際、えりも産昆布の取引量は、当初の予想をはるかに超える量になっていた。
「『北菓楼』さん向けだけで年間16トンくらい。びっくりしました。生産が追いつかない時期もあるんです」(えりも漁協・住野谷張貴さん)
ホリのお菓子のファンにおいしい原料の産地としてその名が知られることは、産地にとっても大きなメリットがあるという。「開拓おかき」の「枝幸帆立」用にホタテを供給している枝幸漁協の今井伸一さんは「お菓子のパッケージにも『枝幸』と大きく入っていて、かなり知名度は上がっていると思います。この先もホリさんと取引を続ける中で、新たな販路を広げていきたいと思います」と語っている。
北海道増毛町。ホリが長年、原料の甘エビを提供してもらっている産地だ。濃厚な甘みのある増毛自慢の逸品だ。
堀は安定的な取引への感謝を込めて、全ての産地に出向き、挨拶回りを続けている。増毛町で堀を迎えたのは、遠藤水産の遠藤秋由社長だ。
「本当に信頼関係だけ。社長のおかげで商品を出してもらっている」(堀)
「『北菓楼』さんが初めてエビのおかきを作ってくれた。今は何社か作っていますけど、それはうれしいですよ」(遠藤社長)
堀の願いは美味しいお菓子作りを通して、厳しい環境の中、頑張る生産者たちを応援することなのだ。
夕張メロンゼリー誕生秘話~廃業寸前を救った親子愛
北海道のお中元で13年連続トップに君臨し、今や全国区の知名度を誇るホリの「夕張メロンピュアゼリー」。メロンをそのまま再現した食感が客を掴んでいる。堀にとってはこの夕張メロンのゼリーこそ、会社を倒産寸前の危機から救った奇跡をもたらした商品だ。
「この商品がなければ今の会社はなかったと思います。この商品のおかげで、いろいろなことを教えていただいたような気がします」
終戦後、炭鉱町の交通の要所として栄えた砂川。炭鉱労働者に甘いお菓子が人気だったため、1947年、堀の父・貞雄は、ここで菓子店を始める。仲のいい3人兄弟の末っ子だった堀。幼心に目に焼き付いたのは、夜中から朝方まで、熱心に煎餅を焼き続ける父の背中だった。
「よく言っていたのは『お菓子屋はいい仕事だよ』ということ。なぜかというと、家族でケーキやお菓子を食べるときは、みんな笑顔になるから、と」(堀)
しかし、父は菓子作りに先行きの不安を感じたのか、息子たちに安定した職業に就いてほしいと望み、薬科大学に進学させる。結局、兄弟は大学進学を機に町を離れ、堀は大手薬品メーカーへ就職、都会暮らしを始めた。
ところが堀が28歳の時、父から連絡が入る。折しも北海道の基幹産業だった炭鉱は、エネルギーの石油転換や相次ぐ事故で次々に閉鎖。砂川周辺の人口が急激な速度で減り続ける中で、父は経営が悪化していた菓子店を辞めると決意したのだ。
ところが、「次男の兄と話したのは、親父がせっかく夜も寝ないで煎餅を焼いて、営業に行って帰って、いつ寝ているのかわからないような苦労をして守った会社を潰してしまうのはもったいない、と」(堀)。堀と兄・均(前会長)は躊躇することなく会社を辞め、菓子店を立て直すため砂川に戻った。
そして親子3人での格闘が始まった。
「とにかく車にこれ以上積めないくらい商品を積んで。父は厳しかったから『売れなかったら帰ってこなくていい』と言っていました」(堀)
営業で北海道中を回る中、堀は自分たちの菓子作りの方向を見定める。それが北海道のおいしい産物を生かしたお菓子作りだった。
「北海道の素材を使って、うちにしかできない商品を作りたい」(堀)
そのアイデアを実現すべく堀一家が目を付けたのが、炭坑の町・夕張で次なる柱として期待されていた夕張メロン。このメロンで作った菓子をヒットさせれば、店を蘇らせることが出来るかもしれない。そう考えて父と兄弟で開発に乗り出したのが、夕張メロンの食感や香りを一年中味わえる、メロンそのもののようなゼリーだった。
堀は兄と夕張ブランドで商品を出す許可をもらうため、生産現場に試作品を持って交渉に赴いた。ところが「夕張メロンのイメージを壊すような商品は絶対ダメだと。何回も何回もうかがって、味見をしてもらいました」(堀)。
何度突き返されても、堀たちは決して諦めなかった。当時を知る、JA夕張市の黒澤久司さんは「我々のような当時の平社員にも『どうだい?』と。『上司はこう言っているけど、どこをどうすればいい?』と聞いてきて、非常に粘り強くて諦めない人でした」と語る。
そうして作り上げたのが、メロンの果肉をふんだんに使った本物のメロンの食感を再現したゼリー。それまでになかったこの北海道の味わいは、1988年にはJALの機内サービスに採用されるなど、北海道土産として瞬く間に大ヒットとなった。
自らの危機を息子たちに救ってもらった父は、晩年、こんな言葉を堀たちに言い聞かせたという。
「絶対に兄弟喧嘩だけはするな、どんなことがあっても一緒に頑張れば、乗り越えられる」
祝い金20万円を支給?~長く働きたくなる驚きの戦略
「自慢の物がある」と、堀が工場を案内してくれた。見ると、機械に名前が貼ってある。「ピュロット」はピュアゼリーを箱詰めにするロボット。「ホバット」というロボットは「ホリ・バームクーヘン・ロボット」から名付けられた。ホリは工場にこんなかわいい名前がついたロボットを次々に導入。今では5台になった。
もちろん作業が効率的に行えるようになったのだが、本当の目的は「60歳でも65歳でも働いてもらえる職場を作りたいと考えているんです」(堀)。きつい作業はロボットに任せ、高齢者には、楽な作業をしてもらう。そうして長く務めてもらうのがロボット導入の目的なのだ。
そんな取り組みで定年後も働き続けてもらい、今や従業員の13%が60歳以上。七尾通(64歳)はボタン一つで動くリフトを使った原料の移動を任されている。「前の会社でリストラを経験しているんです。それでここに入って、知らないうちに社員にしてもらって、今は60歳を過ぎたのでパート勤務をしています。いつも感謝しています。この仕事しかできないのに使ってもらって。こういうことはあまりないと思うんです」と言う七尾。中には80歳の従業員もいる。
とにかく長く働いてもらいたい。そのために堀は、社長の自分に何でも言ってもらえるような風通しのいい環境も作ってきた。堀が一番信頼しているという髙橋政仁は、以前、社長が計画していた創立記念パーティーを中止させたという。
「やはり記念に残るものも大切なんでしょうけど、『全員が何を一番喜ぶか』をお話ししました」(髙橋)
その結果、パーティーの代わりに堀が全社員からパートにまで用意したのが通帳だった。パーティーの開催費用を堀は勤続年数に応じ全従業員へと還元したのだ。
「祝60年記念ということで、会社が口座にお金を入れて全員に配ってくれたんです」「パートや正社員に肩書きに関係なく、一律にもらえたのがうれしかったです。励みになります」と、社員たちは語る。
7年前に兄を亡くして以来、堀はひとりで経営を担ってきた。そして兄が亡くなった時、父と兄から叩き込まれた教えを決して忘れないために、全社員が持つクレドを作った。
「兄や父が元気だったらどういうことを言うか。そういうことが書いてあります」(堀)
数年前、そこへ書き込んだのは「社員はハワイ、パート社員は東京ディズニーランドに行きましょう」という一文。売り上げ100億円を達成した暁には全従業員に豪勢な旅行をプレゼントするという宣言だった。
「これを配った時には、冗談だ、不可能だと思われたのですが、達成をして、翌年に社員全員でハワイに行ってまいりました」(堀)
全ての従業員が仲良く手を携えてがんばれば、どんな時代でも生き残っていける。親子3人の思いは、今もホリの菓子作りに生き続けている。
~村上龍の編集後記~
「お菓子は人を笑顔にする」創業以来の、ホリの企業理念だ。
だが、お菓子は、作り手にも幸福をもたらすのだと、堀さんと話してそう思った。
「もう経営継続は無理だ、店を畳むが、帰ってくるな」という父親の一報に接し、薬剤師として一家をなしていた堀兄弟は故郷に戻り、家族一丸となって事業を再興させる。
まるで心温まる映画を見るようだ。おいしいお菓子の数々は、そうやって生まれた。
家族の愛情が、お菓子開発への強いモチベーションとなり、努力や工夫は尽きることなく、そして、多くの人の笑顔につながっていく。
<出演者略歴>
堀昭(ほり・あきら)1953年、北海道生まれ。1975年、武田薬品工業入社。1981年、堀製菓入社、翌年ホリに改称。2007年、ホリ社長就任。