地域を活性化する異色劇団~飲む・見る・泊まる!複合エンタメ企業【わらび座】/読んで分かる「カンブリア宮殿」

知られざる秋田の観光名所~演劇を中心にした複合リゾート施設

秋田県仙北市にある「わらび劇場」。演じているのは秋田・仙北市を拠点にする劇団わらび座だ。東北を題材にした演目にこだわっている。

上演していたのは、秋田初の女性代議士、和崎ハルの生涯を描いた作品『ハルらんらん♪‐和崎ハルでございます』。わらび座が独自に制作したオリジナルのミュージカル。台詞は秋田弁だ。

観客を魅了する楽しい舞台。平日にもかかわらず700席ほどの客席はほぼ満杯だ。観劇料は一般3780円、小中学生2700円(当日券)。地元はもちろん、遠方からも多くの客がやってくる。わらび劇場での上演は年間およそ200日。地域劇団としては異例の数だという。

だが、実はわらび座を単なる演劇集団だと思ったら大間違い。

わらび劇場を中心に広がる、東京ドーム2個分の広さを持つ「あきた芸術村」。食事や温泉も楽しめる複合レジャー施設だが、これを丸ごと経営しているのがわらび座なのだ。正式名称は株式会社わらび座。従業員数250人(うち劇団員80人)の、仙北市を代表する企業でもある。

あきた芸術村での過ごし方の一例を紹介しよう。ミュージカルを楽しんだらまずは天然温泉へ。この地で湧き出す全国でも珍しい劇団が経営する温泉だ。入湯料は一般650円、小中学生400円。風呂あがりには生ビール。ここで飲めるのは「田沢湖ビール」という秋田県初の地ビール。飲み放題の料金は1296円(60分)。

田沢湖ビール工場はわらび劇場のすぐ隣にある。わらび座は地ビールまで作っているのだ。味は最高級のドイツ産麦芽を使った本格派。世界の品評会で数々の賞を受賞している。

工場長の小松勝久は本場ドイツでビールづくりを学んだ。もちろん彼もれっきとしたわらび座の正社員だ。「良い舞台を見て、いいビールを飲めば私は幸せです。来てくれるお客さんにも、ほんの少しでもいいからそんな感じを受けていただければ」と語る。

芸術村の中にはホテルもある。「温泉ゆぽぽ」は1泊2食付き9114円~。部屋数は62で、年間2万7千人が利用する。

ここでのお楽しみは秋田の食材をふんだんに使った夕食。総料理長、大島昭一の夏のイチオシは地元で獲れた鮎。その名も「とのさま鮎」。秋田藩の殿様が好んで食べたという。「都会からおいでになるお客様たちに感動を与えるということでは、演劇と同じですので」と、大島。宴席では、わらび座の役者が秋田の民謡や踊りで客をもてなすサービスもある。

あきた芸術村は、演劇を中心に東北の文化や魅力を全面に押し出した滞在型のリゾート施設なのだ。



65年の歴史を誇る地方劇団。基盤は東北の民俗芸能

地方劇団の可能性を追求し、秋田の片田舎に年間40万人以上の客を呼び寄せているわらび座。そんな異色の劇団を率い、地域の活性に力を注ぐのが、かつては劇団の看板役者だったわらび座会長、小島克昭だ。

「ただビジネスが先にたつと、これくらい儲からない仕事はないから、普通はやらないでしょうね。でも我々はそういうことが仕事だから。それでも可能性があることを注意深く見ていくことによって、いろいろなビジネスチャンスが生まれてきます」

今や秋田の地にどっしりと根を下ろすわらび座の歴史は、60年以上前にさかのぼる。

まだ戦後をひきずっていた1951年。「荒廃した日本人の心を民俗芸能で癒やしたい」と、作曲家の原太郎が東京に設立した。2年後、民俗芸能の宝庫、秋田に移転。歌や踊りが庶民の暮らしの中に息づいていた秋田で、農作業を手伝いながら民俗芸能を学んだ。若き日の小島もそのひとりだった。

「農作業の中で鍛えられた足腰があるから、そこで作られた強靭な身体で表現する。そういう点ではパワー、エネルギーの大きさがある。習いに行ったりすると、そういうものをもろとも吸収せざるを得ない。それでないと表現できないんです」(小島)

あきた芸術村の中に民俗芸能の研究所がある。秋田を拠点に全国を駆けまわり、日本各地に残る民俗芸能を記録した。その数なんと7万曲以上。中には今や歌われなくなった民謡もあり、貴重な資料になっている。



全国から180校がやってくる「踊り体験教室」

わらび座はその民俗芸能を活かす取り組みも行なっている。この日、わらび座にやってきたのは秋田市内の中学生たち。そこへわらび座の役者たちが登場、彼らを先生にした「踊り体験教室」が始まった。

踊るのはわらび座オリジナルの『ソーラン節』。子どもたちも楽しめるよう、現代風にアレンジしてある。踊り体験教室は、民俗芸能の伝承を目的に40年以上も前から続けている。

練習はクラスごとに分かれて。まずはソーラン節の成り立ちをレクチャーする。ソーラン節は、ニシン漁の漁師たちがお互いを励まし、厳しい漁を乗り切るために歌った民謡。踊りに込められた意味を知ることも大事だ。学校側には、一緒に踊ることで、クラスにはこれまでにない一体感が生まれるという狙いもある。

2時間の練習を終えると、わらび劇場の本物の舞台に立った。

「恥ずかしかったけど、みんなが一緒に盛り上げてくれたので大きな声で演技することができました」「みんな自然にポジティブに、明るい雰囲気になる」と、生徒たちの反応も上々。

子どもたちの成長に一役買うわらび座の踊り体験。全国から毎年180校以上がやってくる人気のプログラムだ。

様々な取り組みで地域に貢献するわらび座。仙北市にとってなくてはならない存在だという。仙北市の門脇光浩市長は、「文化力が経済を牽引する時代がもう来ているんじゃないかなと思う。それをわらび座さんは、ずっと前から感じていたのかもしれない。世界にこの後どんどん進出していく企業だろうなと思います」と、語っている。

全国各地で年間400回。わらび座の原点「巡業」

劇団わらび座の面々が車で向かった先は、東京・練馬区にある中高一貫校。ここで公演をするという。

到着早々、手慣れた様子で準備を始める劇団員たち。彼らは巡業の専門チーム。少数精鋭で、一人何役も掛け持ちしている。このチームは7人の役者と舞台監督、照明や音響など総勢12人。こうした学校への出張公演は、年間260校に上る。

この日上演したのは、宮沢賢治の童話『風の又三郎』をもとにしたオリジナルのミュージカル。太鼓や踊りなど、民族芸能の要素をふんだんに盛り込んでいる。

わらび座には3つの巡業チームがあり、全国各地で年間400回ほどの公演を行なっている。こうした巡業は実は創業当時から60年以上続くわらび座の原点だという。

発足当時、常設の劇場を持たなかったわらび座は、民俗芸能に舞台劇の要素を盛り込んだ演目をかかげ、全国津々浦々を巡業、ファンを増やしていった。1974年、念願だった自前のわらび劇場が完成。6億円の費用のほとんどは、地元秋田や巡業先の支援者からの寄付で賄われた。わらび座はまさに絶頂期を迎えた。

ところが80年代に入ると客足は激減。娯楽の多様化で、従来の演目では客を呼べなくなったのだ。それでも民俗芸能へのこだわりは捨てきれず、やがて倒産の危機に。そんな中、劇団員の半数がわらび座を去っていった。

苦境に陥った創業者の原太郎が、劇団の立て直し役として白羽の矢を立てたのが小島だった。1983年、社長に就任した小島は、「煮詰まっちゃっていますから、能力が上がらない。作られるものが一面的になっていく、形骸化していく。そういう中で役者の能力も幅広くならないという事態でした」と、当時を振り返る。



観光と文化で産業を興そう――元役者社長の経営改革

立て直しを託された小島は必死に再建への道を探った。90年代、小島はアメリカ西部にあるオレゴン州アシュランドに向かう。人口2万人の小さな町の経済を、地元の劇団が支えていると聞いたからだ。劇団名は「オレゴン・シェイクスピア・フェスティバル」。彼らの芝居を見るために、この小さな町に年間約30万人もの観光客が訪れている。

その演目は、伝統的なシェークスピアを現代風にアレンジしたもの。誰もが楽しめるエンターテイメントになっていた。観光客相手にレストランやホテルなどサービス業も発展。ひとつの劇団が町全体を潤しているのだ。

アシュランドの成功を目の当たりにした小島は、秋田にも滞在型リゾートを作ることを計画。演劇を中心に、温泉やホテル、ビールづくりまで手がける複合エンターテインメント企業への脱皮を図ったのだ。

「観光と文化を結合させて一つの産業を興していこうじゃないか、と。それが地域活性化にもなると考えて、我々の役割をそういうところにウィングを広げていきました」(小島)

そして演目そのものの改革にも着手する。これまですべて自前だった脚本や演出を外部の一流スタッフに依頼。ジェームス三木や内館牧子など、第一線で活躍するクリエイターの力と、創立以来こだわってきた民俗芸能をミックスした、独自の和製ミュージカルを生み出した。

こうして生まれ変わったわらび座の舞台。今や、巡業と秋田のわらび劇場を合わせた年間上演回数は700回以上。“和”と”洋”が融合した独自のミュージカルで、熱狂的なファンを獲得。観客動員数はあの劇団四季や宝塚歌劇団に次ぐ規模になる。

そんなわらび座の新たな取り組みは「演劇のチカラ」を使った企業向けの社員研修。演劇は、声や表情、身体全体を使って表現し、観客に伝える。そのノウハウを、コミュニケーション力の向上に活用しようというのだ。

わらび座の演出家で、研修の講師を務める栗城宏は「普段は気が小さくてそんなことできなくても、芝居の上では『バカヤロウ!』と言えちゃうわけです。その時の心の開放感だったり、五感でもって相手に接することだったり、そんなことの役に立てたらいいな、と」と、語る。

仕上げは、わらび座の役者を相手に本気で演技に挑む。3泊4日の研修で、自分の殻を破る力も身につける。60年培った「演劇のチカラ」。わらび座はそれを社会に生かそうとしている。

耕作放棄地が蘇る!地方劇団の農業改革

東京の「ホテル ニューオータニ」。調理部長のパティシエ、中島眞介さんは、あるブルーベリーに惚れ込み、そのブルーベリーをふんだんに載せたタルトのレシピを考案した。その中島さんに、「国内いろいろなところでブルーベリーを食べましたけれど、僕の中では一番です。日本にこんなブルーベリーがあるとは正直、思わなかったですね」とまで言わせたのは「秋田パールベリー」。わらび座が作っている。

6月、あきた芸術村の一角にある農園を訪ねると、大粒のブルーベリーがたわわに実っていた。農園の責任者はわらび座の大和田しずえ。15年前、舞台を見に来たお客さんを楽しませようと収穫体験を企画したのがはじまり。以後、徐々に畑を広げて、今やなんと1万本。これほどの規模は日本でも珍しいという。

わらび座は今、このブルーベリーを使ってある問題の解決に乗り出していた。

米どころの秋田でも、耕作放棄地が急増している。日本全体の耕作放棄地は全農地の1割、面積はおよそ41万ヘクタール。滋賀県に匹敵する広さになる。

耕作放棄地の活用のため、わらび座は近隣の農家20軒にブルーベリーの栽培技術を無償で提供している。ブルーベリーの成功により、一人娘が農業を継ぐ決心をしてくれた個人農家もある。

一方、宮城県仙台市にはこの夏、田沢湖ビールが飲めるレストラン「田沢湖ビール仙台」がオープンした。わらび座はそのビールの原料、大麦も作り始めた。

耕作放棄地がある農家にわらび座が大麦作りを委託し、一括購入しているのだ。貴重な国産大麦を使った地ビールは、販売すると即売り切れという人気ぶり。わらび座はこの大麦作りに取り組む農家を増やし、秋田の農業を元気づけようとしている。

「地域が新しいことを始めるのには、今ほど可能性に満ちた時代はない」と語る小島。「でも、地方は疲弊していると言われ続けているじゃないですか」という村上龍に、「だからです」と応じた。

「秋田県は高齢化の最先端地域。日本の農業がダメになるのは、外国の農産物が入ってくるからではなく、担い手がいないからです。農家が歳をとって後継がいないから、農業の先が見通せないだけなんです。でも若者たちにとって、面白いと思うことができればいいじゃないですか。今は、よく考えたり、角度を変えてみたりすれば、その地方の強みや資源がいくらでも見つかる時代。それを展開できる条件に満ちた時代と社会なんじゃないかと思います」



~村上龍の編集後記~

子どものころ、街の中に芝居小屋があって、無名の一座が巡業に来ていた。

地方の人が簡単に大都市に行ける時代ではなく、エンターテインメントは地域に根ざすより他なかった。

「わらび座」創始者の原太郞は、地方・地域に根ざし……土地の人々や伝統芸能をリスペクトして共存していくという理念を実践し続けた。

その精神は小島さんによって受け継がれ、新しい地平が開かれた。

欧米の影響が濃い近代演劇より「わらび座」のほうが本質的で、先駆的かもしれない。

単に生活に彩りを添えるのではなく、必需品としての文化を生み出した。



<出演者略歴>

小島克昭(こじま・かつあき)71歳。1964年、劇団わらび座に入座。1983年、代表取締役に就任。2014年、代表取締役会長に就任。