映画『ローレライ』とガンダム(1)

必見、福井晴敏原作/樋口真嗣監督の映画『ローレライ』(2005年3月5日東宝系公開)。潜水艦を主人公とした本作を、ガンダム的視点で見た魅力に迫る!

●新時代のエンタテインメント映画『ローレライ』誕生

 今回、次回と、「ガンダムの時代・番外編」として3月8日公開の新作映画『ローレライ』(フジテレビジョン・東宝提携作品)を取り上げたい。

 原作者は小説『亡国のイージス』で大藪春彦賞をはじめとする各賞を取った福井晴敏。監督は「平成ガメラシリーズ」の特技監督で知られる、樋口真嗣。この二人が真っ向から取り組んだ上に、『踊る大捜査線』などヒットを生んだフジテレビの亀山千広プロデューサーが製作を統括する話題の娯楽大作映画だ。

 この映画は約60年前の太平洋戦争終戦末期……ある秘密兵器を搭載した潜水艦の物語である。だから舞台の大半は海であって宇宙ではなく、もちろんスペースコロニーも出て来ないし、V字アンテナをつけたロボットもビーム兵器で戦ったりはしない。

 なのに、なぜガンダムの話題を扱うべきこの雑誌、このページで取り上げるのか……それは、当然の疑問であろう。

 そこには原作者の福井晴敏が『ターンエーガンダム』の小説化を担当しているとか、ガンダム関係者が参加していたり出演しているという関連もあるにはある。だが、最大の理由は“『機動戦士ガンダム』を面白いと思われる方たちなら、映画をご覧になって間違いなく喜んでいただけるに違いない”という確信があるからである。

 これは血肉のレベルで「ガンダム味」の染みわたった美味しい料理とでもいうべき映画なのだ。だから、ここでぜひお勧めしたいと、つまりはそういうことなのである。

 こう言ってしまうと、これはガンダム的なものをなぞっただけの大味な映画かと言えば、決してそうではないとも断言できる。この映画には「宇宙戦艦ヤマト味」や「宮崎アニメ味」、「エヴァンゲリオン味」だってあふれているし、怪獣は一匹も出て来ないのに怪獣映画味も感じられる。まずはそこがすごく面白いし、同じ時代を生きる人間としては、「こういう創作もあるのだ」ということで勇気づけられる点が多々ある。

 では、元ネタが感じられるからパロディっぽい映画なのかと言えば、これも回答は断じて「NO」だ。映画を観ている間はそうした原典のことをまったく忘れるほど作中にのめりこませてくれる。それどころか、サスペンスと疾走感に充ちた至福のエンタテインメント時空間がそこに厳然と存在し、完全に映画の世界へと埋没できる。『ローレライ』は、1本のオリジナル映画としてきちんと楽しめるよう、あらゆる面で真摯に腐心している……そんな志の高さが肌に伝わる作品である。

 つまり具材は存分に煮込まれて、味つけのレベルにまで分解されているということだ。そして、「アニメ」「非アニメ」といった区分けを超越した、何か新しい映画が誕生した……そんな興奮が、熱い魂の伝搬とともに『ローレライ』の映像から手応えとして伝わってくる。

 この歴史的瞬間にぜひとも立ち会って欲しい。

●映画の成り立ちとガンダムの関係

 子細に入っていく前に、筆者・氷川竜介のこの作品に対する立場を、あらかじめもう少し明らかにしておきたい。

 通常、アニメ・特撮の文筆業者は、作品がほぼ完成するか完成後に仕事の依頼が来て、そこからが勝負となるのだが、本作については事情が違っていた。

 昨年、撮影中の時期から、二人の作者である小説家・福井晴敏と樋口真嗣監督の長時間にわたる対談のまとめを、氷川が担当させていただいたからである。1月20月発売の「ローレライ浮上」(講談社刊)という題名の単行本で、映画の企画としての発進から作品としての浮上まで、全プロセスを追った貴重な記録が出版される。その過程で明らかになっていった企画の出自も、運命的なドラマを多数内包しており、そのいくつかにはやはり『ガンダム』が根深く関わっていることが確認できた。世代の必然という部分はあるにせよ、何か重要な示唆を予感させて、面白い仕事になった。そのとき得た情報も交えつつ、話を進めていこう。

 そもそもこの映画のきっかけは、旧世紀末の西暦1999年。樋口監督が福井晴敏のベストセラー小説「亡国のイージス」を読んだことにある。ただし、この時点では「イージス」は映画になりにくいため(今年、映画化されるが)、映画用オリジナルの原作をいっしょに作りたいと樋口監督が思ったところから話はスタートする。

 結果、二人の出逢いは、映画化を前提にした原作プロットを共同で立ち上げていく作業に発展していく。福井晴敏の書き上げたプロットは、それ自体がミニ小説的な厚みのあるものだったが、それを母体として小説(「終戦のローレライ」講談社刊)と今回の映画……姉妹とでもいうべき二つの作品が誕生した。

 だから、これは「小説があって、それを映画化した」ものとは少し違う。二人の作者が映画をにらんで共同開発し、それぞれのフィールドで作品を世に問うたという希有な例なのだ。

 では、その『ローレライ』とはどんな物語なのであろうか。

●太平洋戦争末期のドイツ秘密兵器

 時代は1945年夏――第二次世界大戦がまさに終局を迎えようとしている時期に設定されている。映画は同年7月15日、東シナ海中の戦闘から幕を開ける。

 米軍所属のガトー級潜水艦は何者かに魚雷攻撃を受けて被弾し、船殻は爆裂四散する。海中で散華した搭乗員たちの血糊や残骸を見つめる何者かの目……この攻撃をしかけた側の艦こそが、本作の主役に位置するドイツ海軍所属の潜水艦だ。

 ドイツ降伏後、この艦は日本海軍に接収されて戦利潜水艦《伊507潜》と呼称されることになる。海軍軍令部作戦課長の浅倉大佐(堤真一)は、かつて名艦長と言われた絹見真一(ルビ:まさみ)少佐(役所広司)をこの船の艦長に任命。広島に落とされたばかりの新型爆弾(原爆)を積んで日本に向かう輸送艦を撃沈させる作戦を命じる。かくして運命の《伊507》は出航した。

 大戦末期のことゆえ、寄せ集めに近い乗組員たちを集めて出撃した《伊507》。絹見艦長と先任将校の木崎大尉(柳葉敏郎)によって指揮され、謎の航海を進める、戦史に残っていない潜水艦……。その圧縮された異常な密室空間の航海と作戦遂行が、物語を先へと進めさせる原動力となる。

 乗員の中には、人間魚雷回天の特別攻撃隊から転属してきた若干19歳の折笠征人(妻夫木聡)がいた。若さゆえ、特攻否定の艦長と衝突を見せる征人。さらに、この艦にはドイツ軍が開発した特殊兵器が搭載されていた。その名も《ローレライ・システム》。だが、その秘密の全容は軍属技師の高須(石黒賢)しか知る者がいなかった。

 こうした微妙な緊張をたたえる《伊507》の背面には、ミゼットサブ《N式潜》が搭載されており、征人はその操縦を任される。だがそこには、《ローレライ》の秘密について重大な鍵を握る少女パウラ(香椎由宇)が隠れていたのだった……。

●潜水艦――それは究極の密室群像劇

 映画『ローレライ』の物語は、このように架空の兵器《ローレライ》の謎を中心においている。怪しげな秘密を秘めたミッション、神秘の香りを漂わせた美しきヒロインなど、幾重ものミステリアスな要素の描写の積み重ねが、変化に乏しいはずの海中の旅を単調なものとせずに、次第に濃密なものへと変えていく。

 潜水艦の船内は、空気も水も、あらゆるリソースが限られた狭い空間だ。そこで演じられるのは、まさに「究極の密室群像劇」と呼べるものに違いない。さまざまな出自と年齢構成、経験や考え方の違う人間を閉じた空間に押し込め、さらに内圧を高めるような要素が次々に入ってくる。人の距離が物理的に縮まっていることにより、ドラマのもととなる葛藤(コンフリクト=衝突)と、情況の絶え間ない変化が生まれる。「潜水艦ものにハズレなし」と言われるのは、そのためである。

 あえて『ガンダム』との比較に話題を移せば、まずはこうしたストレスの大きな群像ドラマのダイナミズムと作劇が、富野アニメと非常に近しいもののようにも感じられる。

 富野由悠季監督の多くの作品では『機動戦士ガンダム』を筆頭に、まずベースとなる“船”が用意される。そこに、緊急避難的にいろんな場所から各種のバックグラウンドを持った人が集まって来る。海ではなく宇宙や大気中を移動する船が大半なため、船内という固定した空間と移動先の風景の変化、双方が併走しつつ物語はひとつの目的に向かうことになる。

 だが同じ目的を持ってはいても、人は必ずしも同じ行動や反応を起こさない。むしろさまざまな理由で感情的に衝突を繰り返すものだ。それが「次はどうなるのか」というドラマ的な興味を観客に喚起させ続けるもとにもなる。

 『ローレライ』の採択したこのような「密室における群像劇」という作劇方法は、特に『ガンダム』がオリジナルというわけではなく、潜水艦ものでは定番と言える。だが、ガンダムのとった「船の中での群像劇」という手法の影響は大だということも、同時に言える。

 さらに『ガンダム』を連想させる部分を選ぶとすれば、それは個々人ではどうにもならない「戦争」という大きなものが、船のミッションと個々人の生き様にのしかかっているという、映画全編を通じての実感だ。ことに戦争が人の意志を簡単にくじき、不条理とも言えるぐらいあっけない死というピリオドをもたらす極限のネガティブなものとして位置づけられているという点では、非常に近しい視座が感じられる。

 そこで重要なのは、戦争の悲惨さそのものではない。どんなにネガティブな場合でも決してあきらめず、常に自ら未来を切りひらこうとする人の心、つまり「意志」である。人はそれを「希望」と呼ぶ。これは『ガンダム』シリーズ全般を通じての姿勢でもあり、ことに「ニュータイプ」という存在に託されているメッセージでもある。

 『ローレライ』にも、その点で通底したものを感じる。表層的なことではなく、むしろ本質が通じあっていることの方が、極めて貴重な継承性と見ることができる。

●絶対の秘密兵器がヒーロー的な活躍に

 前述のように、この映画の最中心部にあるのはナチスドイツが開発した秘密兵器《ローレライ》である。連邦軍の新型兵器「RX-78ガンダム」を中心においてスタートした『機動戦士ガンダム』と、その点でも共通性を感じる。

 だが、より大事なことがある。それは、秘密兵器の「存在感」だ。

 《ローレライ》が実現する秘密の機能とは、興味を削がない範囲で言及しておくと、予告編でも語られている通り、「従来型のソナーを“耳”とするなら、これは“目”である」ということが真髄である。ローレライというネーミングは、ドイツのライン川にまつわる伝説がもとで、“歌声で人を招き、岩にぶつけて死をもたらす魔女”のことを意味する。

 潜水艦とは、海中航行するその構造から潜望鏡以外の視認機能をもてない。ソナーと呼ばれる音波による探査装置を使い、海底の地形や敵艦の位置を把握する。つまり、これが“耳”である。攻撃手段である魚雷も命中精度が低く、潜水艦同士の戦闘は至難でさえあった。第二次世界大戦当時の潜水艦の主任務は水上艦艇の破壊にあったが、海戦よりも輸送船を襲撃して通商を妨害し、補給路を分断するような活躍が目立っていた。

 ところがそこに、海中から海上まで全容を一望できる装置があったとしたら……圧倒的な優位性をもったその潜水艦は無敵となるに違いない。《ローレライ》を搭載した《伊507》は、まさにそうしたヒーロー的位置づけにあるのだ。

 そのヒーロー像のあり方も、解釈を広く取ればガンダムに匹敵すると言えるだろう。

●積み上げたディテールの中央に位置するヒロイン

 それゆえ、この映画の大きな見どころのひとつは、新型装置《ローレライ》の動作と、それを応用した戦闘、つまりヒーロー的活劇になってくる。ことに現在のような精細なディスプレイ装置を持たない時代に、どのようにして敵艦配備状況を図示するかについては、驚くべきビジュアルが用意されているので、楽しみにして欲しい。

 しかも、その動作機構の中心には、「美少女」が必要なのだ……。

 この物語構造のパーツだけ取り出すと、いわゆる「架空戦記」や「ライトノベル」に近いものと思えたり、あるいは一般的な「SFアニメ」を連想させるかもしれない。しかし、この絵空事とも取られかねない中枢の周囲には、何重ものリアリティの防壁が用意されているのだ。

 潜水艦の内部はすべてセットだが、これが実によくできている。映画を観ている間は本当に乗組員とともに海中にいるような臨場感を覚えることができる。そのリアリティは、緊急配備が告げられたときの《伊507》における描写の積み重ねを見るだけでも容易に了解できる。

 発令所を中心として、各部署に血脈を行き渡らせるパイプ、非常灯で赤々と照らされる中、必死の形相で装置を動作させる諸係。ことに金属感の描写の積み重ねは、床面やラッタルの足音、水密ドアを開閉するときの硬質な擦過音など、セットの材質とスカイウォーカー・サウンド仕込みのハリウッド音響の相乗効果で、金属でくるまれた密室内の緊迫感を強く盛りあげている。

 このように、身体に密着するような肌触りのあるディテールをおろそかにせず、最大限にすくいあげて積み重ねていった上で、甘いとも言える絵空事(『ローレライ』の場合は秘密兵器を起動させる美少女)を置き、腑に落ちさせるという方法論をとっている。

 これもまた、本質はガンダムを連想させるものなのである。ファーストガンダムは、富野監督が「ニュータイプ」という絵空事を納得させるために、周囲の描写のリアリティを当時としては最大限に重視したという。この故事に近い姿勢を感じさせるアプローチなのである。

●無意識のうちにガンダムに引かれる魂

 このように『ローレライ』からガンダムを連想させるところは、探し出せばいくらでも見つけることができる。だが、誤解を招かないよう声を大にし、繰り返し注意を喚起しておきたいことは、ガンダム雑誌のこのページで取り上げているからと言っても、映画の仕上がりはそれほどストレートなガンダム相似にはなっていないということだ。なのに「ガンダムっぽい」という部分が、直接的には似てないがゆえにかえって面白いし、同時に興味深いものなのである。

 無数にあるガンダム志向の作品では、たとえばヒトガタをした巨大メカにロボットとは別の特別な呼び名(モビルスーツに相当)をつけ、それが軍事運用される戦争状況と世界観を考え出すというような、非常に表面に近いところをなぞる。しかし、筆者が先述の対談本「ローレライ浮上」をまとめていく作業の中で痛感したのは、『ローレライ』はそうしたアプローチとは根本から大きく違い、深いところに共通性があるということだ。

 そもそも福井晴敏も樋口真嗣監督も、当初から「ガンダム的なもの」を互いに感じたから出逢ったわけではない。ましてや、ガンダムを目ざそうとして企画を始めた作品でもない。なのにいつの間にかガンダム的なものが影を落としてしまう。それほど『ガンダム』とは大きな存在なのだが、それだけでは済ませないものが明らかに『ローレライ』のプロジェクトには感じられる。

●小説版に潜む「ガンダム的」なもの

 プロットと小説を担当した福井晴敏としては、途中から明確に『ガンダム』を意識した点があったという。それを筆者なりの言葉で再整理すると、以下の2点が代表となるだろう。

「この20余年で最も成功した戦争映画が『ガンダム』であったこと」

「劇場版『ガンダム』のように、壮大な世界観をバックボーンを持つ群像劇を凝縮していく語り口」

 ことに後者は、『ローレライ』の映画と小説の差を考えるとき、かなり重要なファクターである。

 映画用に「亡国のイージス」よりもコンパクトな物語を考えたはずだったのに、「終戦のローレライ」は、はるかに長い小説となってしまった。樋口真嗣装丁によるハードカバー上下巻の外観は、書店で手に取った人をたじろがせるほどの厚みと重さであるし、文字面の上でも「イージス」以上に映像化は至難と感じさせるようなルックと質量を獲得している。

 しかし、このボリューム感が小説としてのひとつのポイントなのである。単に長いというわけではなく、量そのものに意味があるのだ。

 たとえば人間ひとりずつの履歴や《ローレライ》の兵器としての成り立ちなど、バックボーンとディテールの深みが用意されている。それが読者の興味を物語に引きつけ、ページをめくる手を止めさせない。根拠の重みが「いかにもありそうな」というリアリティの感覚を醸成していくわけだ。これもやはり、「ガンダム的なもの」を感じさせる一端となっている。ガンダムシリーズでは、登場しては散っていく人間ひとりずつに長大な人生を感じることが多々ある。それに似た感覚を獲得しているという意味である。

 映像の文法では、表情の変化や視線の交錯など、アクション・リアクションも一瞬で描ける。そういったものも文字で忠実に追っていった結果、長大なページ数の本が現出した。なのに、決して読者を飽きさせず、一度読み出すと止まらない面白さを獲得している。

 これで連想されるのは、米国の小説家スティーブン・キングだ。乱暴に言えば、キングにとってのホラー映画が、福井晴敏の場合は『ガンダム』なのかもしれない。もちろん『ガンダム』以外にも無数の映画が福井小説の血肉となっているのは如実にわかるが、『ガンダム』が大きな地位を占めつつ、新世代の小説を生み出しているという事実には、映像がデジタル技術の成熟でさらに変革しようとしている時代の意味性を考える上でも、非常に重要なヒントが含まれている気がする。

●共鳴しあう小説と映画の魂

 こういうプロセスを経た映画『ローレライ』とは、はたして「ガンダム的」かどうか……これについては評価を誤らせる可能性があるので、慎重に言葉を選びたい。邦画としては破格の凄まじいレベルで新時代エンタテインメント大作が誕生したのに、「しょせんはガンダム映画」と枠組みに収められるようではいけないからだ。

 まず、あくまでも完成した映画は特撮とアニメの両方にまたがり、長く作品を続けてきた樋口真嗣ならではの魅力にあふれた、彼か撮れない映画となっている。誠実で心地よい緊張感に充ちたカット割りとカメラワークの積み重ねの粘りが、微妙な内圧を感じさせる映像空間へと昇華していく。その様相は、第二次世界大戦という古色蒼然たる題材を扱っていながらも、きちんと「新時代の映像」を感じさせるものとして成立している。

 しかも、役所広司演じる絹見艦長を筆頭に、存在感とケレン味を良いバランスのブレンドで提示する名優たちの演技が加わることで、邦画ともハリウッド映画とも、もちろん既存のアニメ作品・特撮作品とも違う、他に類を見ない語り口を獲得したフィルムとなっている。

 映画版の内容は、かなりの紆余曲折を経ているため、小説版とはだいぶ異なったものとして整理・再構築されている。それなのに、何か根本の「志」とか「魂」といった、人間だけが感じられる心の根幹レベルで、小説と映画は非常に近しいものとして感じられる。

 「読んでから観るか、観てから読むか」というのはだいぶ前の角川映画の惹句であるが、『ローレライ』の場合は映画と小説、どちらから入ってもそうした共通性を互いに強く感じるはずだ。ことに小説を先に読んだ場合、映画を観てから再読すると、またそこに新たな感動を得ること必至である。こうした「魂の伝搬」「志の連鎖」を獲得したこと自体が、繰り返しになるが本作でもっとも貴重なことなのである。

 『ローレライ』のオリジナリティを前提として踏まえた上で、あえて「ガンダム的」なものに興味を向けると、ガンダムファンなら間違いなくある作品を連想することも、ここで提示しておきたい。その作品とは……『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』である。「虎の縞は洗っても落ちない」とは、まさにこういうことかもしれないが、その詳細は次回のお楽しみということで。

 このように『ローレライ』と『ガンダム』には、一見遠そうでいて近しい関係がある。この「違うように思えるものが実は同じ」という考察には、物事の「本質」を照らし出す光があると常々思っている。その光をこの場では見つけていきたい。

 そこから、「なぜわれわれはガンダムという作品に惹かれ続けるのか?」「ガンダムが好きな自分はどういう存在なのか?」という根源的な秘密の本質に迫れるかもしれないし、そこからまた新たなる飛躍と発展を見いだせるに違いないから……。 (以下次号/敬称略)

【2005年1月14日脱稿】初出:「月刊ガンダムエース 」(KADOKAWA)