映画『ローレライ』とガンダム(2)

※2005年の原稿です。

いよいよ公開迫る、福井晴敏原作/樋口真嗣監督の映画『ローレライ』(2005年3月5日東宝系)。ガンダムの血脈を継ぐ日本映画界の革新が、いまついに全貌を現す!

●闇と希望の指し示すもの

 前回に引き続き、「ガンダムの時代・番外編」として3月5日公開の新作映画『ローレライ』(フジテレビジョン・東宝提携作品/福井晴敏原作/樋口真嗣監督)を取り上げて、ガンダムを連想させる「魂の継承」について考えていきたい。

「深海に住む生き物は眼をもたない。なぜなら彼らには地上からの光が全く届かないからだ。そこは果てしない闇に閉ざされ、死と沈黙が支配する。だが彼らは抱いている。決して消えることのない希望という名の光を」

――潜水艦映画『ローレライ』は、このようなオープニングメッセージから幕を開ける。

 第二次世界大戦末期、広島・長崎に続き、爆撃機B-29によって東京に落とされようとする3発目の原爆を阻止する……その使命に賭ける男たちの、これは「希望」の物語である。このメッセージは、その宣言だ。

 緊迫続きの展開を引っ張っていくのは、戦利潜水艦《伊507》に搭載されたナチスドイツの特殊探知兵器《ローレライ・システム》の驚くべき性能。貫いていくのは、絹見艦長(役所広司)の「あきらめない」鋼鉄の意志。中心にあるのは、ドイツ人と日本人の血をひく少女パウラ(香椎由宇)と、特攻少年兵の折笠征人(妻夫木聡)のほのかな情愛……。

 そのミッションの裏には、とてつもなく大きく深い「闇」が隠されている。

 戦争それ自体も「闇」ではあるが、話はそう単純ではない。無為に貴重な人名が失われる戦争とは、もちろん良いものではありえないが、戦争は良くないものなのだから……と、思考を停止させてしまうのはもっと良くない。

 戦争がなぜ起きるのかと言えば、それは国家という社会同士の軋轢によるものだ。その社会とは、成員ひとりずつの人間とその関係性に還元される。だから、誰もが戦争とは無縁ではいられないのである。

 もしも戦争という大状況が想像しにくければ、もっと日常に近いレベルで戦争に近しいものがないか、よく考えてみると良い。会社でも学校でも、頂点のあるピラミッド型の階層社会を形成している以上、そこには必ず競争はあるし、人間が2名以上いれば軋轢は必ず発生する。

 であれば「闇」はひとりひとり、人間の中から発生するということになる。自覚しているかどうかは別にして誰もが持ち得るものだ。

 そこであきらめてしまうのは簡単だが、だからこそ逆にひとりのレベルで何かできること、すべきことが誰にでもあるはずだ……というのが小説・映画を通じた作中に流れるものである。それは作者たちの制作そのものの姿勢とも通じて、大きな響きあいを発生させている。

●『ローレライ』と『逆襲のシャア』の共通点

 そういう観点をもったとき、真っ先に連想されるガンダム作品は、映画『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』(以下『逆シャア』と略)ではないか。以下にその関連を述べていこう。

 1988年に公開された『逆シャア』は、脚本自体も富野由悠季監督の手によるもので、劇場向けに完全新作を成し遂げたという意味でも「初の富野監督映画」と呼べる作品だ。

 それと『ローレライ』は、実にいろんな点で似通ったものが感じられる。

 まず、小説版と映画版相互の関係性――『逆シャア』は映画公開前から富野監督自身によるノベライズが執筆され、現在では『機動戦士ガンダム ハイ・ストリーマー』(徳間デュアル文庫/全3巻)として読むことができる。ファーストガンダムの小説化が全3巻程度だということと比べると、2時間の映画の小説化としては長い方だが、この小説と映画版の関係が『ローレライ』と少々似ている。

 たとえば、映画『逆シャア』では開巻からすでにシャアは隕石落としの作戦遂行に入っていてアムロのリ・ガズィと交戦している。メインタイトルのバックには建造中のνガンダムの姿が映るなど、「なぜそういう状況になったか」の一切が省かれ、いきなり戦闘の激しいシーンと新兵器を観客に対するアタックとして提示し、単刀直入に本題に入っている。

 しかし、小説版ではちょうど文庫1巻ぐらいの分量を使い、冒頭部分で「どうしてこういう状況にいたったか」というバックグラウンドを示していくような構成となっている。そして、νガンダムという新兵器の誕生した経緯が描かれた上で、次第に映画で描かれているような状況へと近づいていく。

 『ローレライ』ではプロットから膨大なる分量の小説と映画が起こされたわけだが、特に映画化に際してはやはり大きな省略がほどこされている。アバンタイトルは、やはり戦闘。ナチスドイツ海軍所属時代の《UF4》……「海の幽霊」と呼ばれたローレライ・システムによるUボートと米海軍の雷撃戦が置かれ、観客にこの映画でどういう状況の戦闘が描かれるかを、映像でたっぷりと提示している。

 小説の冒頭では、いったん海底に放棄された《ローレライ・システム》の回収にいたるプロセスが細かく描かれる中で、登場人物の参集から設定のディテールを説明していく構成をとっているが、映画では《伊507潜》は最初からドック入りしており、パウラと《N式潜》もセットされたかたちで出航する。やはり、新兵器の登場から話に入っていくわけだ。

 これは小説を改変しているというよりは、映画の特性との違いをきちんと意図的に処理した結果という風に思える。映像による情報は比較的細かい説明を飛ばして「見ればわかる」という興味本位のところから入っていけるからだ。

 刺激の強い映像でまず観客をつかんで「どういう映画か」を見せるのは、たとえば『007シリーズ』で必ず中ぐらいの事件をひとつ解決してから本題に入るという事例が有名で、エンターテインメントの黄金律とも言える。

●浅倉大佐とシャアの描き出す相似性

 前号でも紹介した福井晴敏・樋口真嗣の対談本「ローレライ、浮上」(講談社刊/氷川竜介編)によれば、樋口監督は仕事中に『逆襲のシャア』をかけて映像のリズムを調律することもあるそうだから、冒頭に限らず全体構成やカッティングのリズムなどにも影響が見られるかもしれない。

 しかし、そうしたことよりもドラマを支える抜本的なものに共通点が多いように思えるし、そちらの方が思索上はより重要ではないか。

 映画『ローレライ』では広島と長崎に原子爆弾が落とされ、それを踏まえて東京に落とされる予定の三発目の原爆阻止というメインのミッションが位置づけられていく。対する『逆シャア』では、シャアの陣頭指揮でまず地球連邦本部のあるチベットのラサへ隕石落としを成功させたという大成果があって、本命のアクシズ降下をめぐって攻防戦が繰り広げられる。

 加えて、浅倉大佐(堤真一)とシャア・アズナブル総帥という存在を並べてみると、共通性を強く感じさせる要素が発見できる。『ローレライ』の浅倉大佐の方は公開前だからそれほど詳しくは言えないが、今は彼が考える「国家の切腹」といういささか剣呑なタームから、想像をたくましくして欲しい。この危うい言葉から導かれるサスペンスのドラマが映画中盤を盛りあげていくわけだが、映画を離れて考えると、いわば「地球の切腹」を描いた『逆シャア』を連想させる部分が見え隠れする。

 視線を引いてみれば、体制のもたらす閉塞への絶望と逆襲という点が共通しているし、単なるルサンチマンに基づくヒステリー的加害ではなく、後の展開を洞察したことが必然的に導き出す行為という共通性が、より重要だ。つまり、単にその行為を否定しただけでは済まなくなり、必ず何かを考え直さなければならなくなる「万人の当事者化」という点での意味性が大きい。

 どんな時代のどんな体制下においても、一定以上の規模になり一定以上の月日の経った組織は、かならず淀んで腐敗する。もっと正確に言えば、ある共通の目的をもって人を集めて何らかのアウトプットを出すのが組織のはずなのに、組織のアウトプットが組織それ自体に奉仕するように変化するのである。

 こうした腐敗の中で既得権益を護持する者の喉に匕首を突きつける行為とは、失敗すれば単なるテロリズム、成功すれば革命になるわけだが……日本が滅亡するかどうかという瀬戸際にどういうことがあり得たのか、たとえば戦後の混乱時期に米国の占領軍と日本側でどういう取引が行われたか等から類推していけば、いろんな可能性が考えられる。

 その可能性のうち、選択されたものの果てに現在があるわけだが、そのすべてを良しとするのではなく、選択されなかったものと現在の間に補助線を引いてみて、現在と未来にあり得る閉塞の妥当性を検証する行為は、時に必要なのではないだろうか。

●中核に位置する特殊能力の少女たち

 もうひとつ、大規模破壊とは別に共通するものが存在する。それは特殊能力をもった美少女のことだ。

 『ローレライ』では特殊探査装置の作動原理にパウラ・A・ウエブナーという少女が使われている。『逆シャア』でも新型モビルアーマー“αアジール”のサイコミュを使う少女クェス・パラヤの存在が、物語の中核にある。

 つまり、人間を兵器として使用することの悲劇性に関して、それが少女である点に相似性がある。それだけなら「定石」で済んでしまうのだが、やはり深いところで水脈がつながっているように感じられる。

 対談本「ローレライ、浮上」によれば、女性を出すことの発端は、映画に華をもたせることだったという。潜水艦内になんとしてでも美少女を乗せるために行われた苦闘の子細は同書を読んでいただくとして(なかなか興味深いプロセスである)、パウラが超常の感知能力をもつ存在となっていったとき、ドラマ内における「死を感じとる(看取る)存在」としての女性という共通性も、自然に相似形を描いていったのではないか。

 もちろんクェスとパウラでは性格も正反対だし、役どころ的にも違う点の方がむしろ多いが、ここでも気になってくるのが「闇と希望」という対比と照らし合わせたときの共通性だ。

 ファーストガンダム以来、シリーズ中で継続的に描かれている「ニュータイプ」という存在は、これもいわば圧政、搾取とそれが生んだ戦争という「闇」から浮かびあがる「希望」の象徴である(富野監督が1980年に著した「演出ノォト」では「願い」であると位置づけている)。しかし、シリーズを通じて注意深く見ていくと、結局はニュータイプという高みを見つめながらも、決して神になどにはなれない人間の愚かしさが繰り返し描かれていくという構造をとっている。

 では、人類は愚かしいから絶望的にダメだと否定しているかというと、そういう存在だからこそ人は他人を受け入れ、永遠の希望がもてるとも描いているわけだ。作劇的にはそこから永遠に結論の出ない葛藤(ドラマ)が生まれるわけだが、作劇のことを抜きにしてもこの堂々巡りにも見えるかもしれない哲学は、現代という時代を生き延びるために、貴重なものを提示していると直観する。

 そこになぜ少女が直結するかというと、これはイノセンスな存在であり、同時に次代を生むことのできる象徴であるからに他ならない。それは小説版の「終章」を読めば明白だ。

 少々こじつけめいているように聞こえるかもしれないが、こんなレベルにまで還元しての共通性が発見できるということは、それだけファンダメンタルな「時代性」の現れが継承されているということだと思いたい。

 「ガンダム好き」と言っても多種多様だと思うが、「ガンダムに内包されているすべてが好き」ということではなく、「ガンダムがこの世の中、この時代の“本当のこと”を描いているから好き」と考えを発展させたい人には、『ローレライ』はうってつけの素材と言えよう。

●ガンダムを意図的に取りこんだ部分

 では、どれくらい作者たちは『ガンダム』という存在を直接的に意識していたのだろうか。対談本「ローレライ、浮上」で、福井自身はこう証言している。

「この20年間で一番売れている戦争ものって、間違いなく『ガンダム』でしょう。じゃあ、その要素を入れない手はないだろうと。これは趣味の問題ではなく、ビジネス的に成功させる手段です」

 同時に「ガンダム的な編集術」を使っていけば、大量のプロット情報がスムースに映画のなかに入っていくという期待もあったようだ。2時間前後の映画を想定したはずの小説版「終戦のローレライ」が、あれだけの圧倒的物量に結びついた原因にも『ガンダム』があったというのは興味深い。

 世代の問題としてもガンダムの影響、あるいはアニメ的な仕掛けは避けて通れない話題のひとつである。たとえば大仕掛けでない部分でも、いたるところに『ガンダム』や富野アニメを想起させる描写が散見される。

 小説版で氷川が特に「ええっ?」と思った部分は、もとナチス親衛隊(SS)の士官フリッツ・S・エブナーの描写である。ローレライの鍵を握る少女パウラの兄であり、日本人の血が入ったクォーターという設定は、ロボットアニメでよくある「美形キャラ」を連想させる。

 加えてフリッツが日本人のクルーたちと《伊507》のミッションをともにし始めるとき、決定的なことが起きる。なんと彼は日本人の姓名の読み順と混同されて、本来「エブナー少尉」と呼ばれるべきなのに「フリッツ少尉」とされて、それが定着してしまうのである。

……いや、それは「どうしてアズナブル少佐ではなく“シャア少佐”なの?」というガンダムファンの一部を四半世紀にわたって苦しめている(?)ファーストネーム問題のことでは……と、思わず本を持つ手が震えてしまった。

 欧米人と仕事をした経験を持つ人ならわかってもらえると思うが、ファーストネームまたはニックネームで呼ぶということには、お互いが親密な関係にあるという特別な意味が生じる。だから、ファーストネームにフォーマルな役職名やミスターなどはつけないのが慣習だ。ガンダム世界の「ブライト艦長」等の呼称は、その慣習をバイオレートしているものなのだ。

 宇宙世紀の世界では、その辺が特別なルールになっているのかもしれないなあと目をつぶってきたわけだが、小説「終戦のローレライ」では現実世界の延長にある第二次世界大戦の世界にも一種特別ルールを持ち込んで、この疑問に解決をもたらしているのだ。

●圧倒的な筆力がもたらす打破のパワー

 福井晴敏の小説版「終戦のローレライ」が本当に凄いのは、こういうことを積み重ねると、全体がアニメっぽいと断じられ切り捨てられる……そんな一種の危険が多々予見されるにもかかわらず、「その何が悪いのか」とある種の確信をもって筆を進めていることだ。

 説得力あふれるディテールに支えられた圧倒的な描写力の積み重ねで、そうしたケレン味ごとすっぽりと包みこむだけのリアリティと求心力、臨場感を発生させている。読者を完全に説得するところまでやれば、アニメ的要素も小説としての価値を減じるどころか増す方向性へと応用できるということだ。先の例も「フリッツ少尉……この呼び方だって決して間違いではないだろう?」という考え方が裏打ちしているわけで、そこに激しい気骨が感じられる。

 その姿勢は、映画化に関しても樋口真嗣監督に継承されている。

 多くの特撮映画とアニメに参加してきた樋口監督は、これまでと同様に絵コンテですべての映像をあらかじめ設計し、その上でライブアクションの演出に取り組んでいる。CGやデジタル合成を駆使した戦闘パートは言うに及ばず、ことに本編での切り返しを多用したカットつなぎは、金属に囲まれているという臨場感を支えるスカイウォーカー・サウンドの音と一体となり、全体の緊張感を限りなく高めていく。

 こういった「アニメ的なもの」を否定せずに、積極的に武器として使っていく挑戦の取り組み自体が、一種「ガンダム的」と言えるのではないだろうか。つまり、「ロボットアニメの何が悪い?」と富野由悠季監督が26年前に見せた気概と、深いところで響きあっているように感じられるという意味である。

 こうした想いのこもった姿勢は、作品から強くにじみ出る。そのパワーで強化された言葉は魂をもち、受け手の心を動かす。その積み重ねが、登場人物一人ひとりの極限状態における思惟と響きあった果てに、「アニメ的なものはメインストリームに比して下等なものである」といういわれのない思いこみ打ち破っていく。

 つまり、そうした旧世紀のパラダイムに縛られた思いこみもまた、ひとつの「闇」だと見なせば、ここにもある種の閉塞を破る「希望」が強い力で打ち出されているということができるわけだ。

 読者・観客側としては、絶対にこうした部分を見逃してはいけない。そこで感じたことを積み重ねてさえいけば、「ローレライ・プロジェクト」全体で言われている「希望」の正しい姿がはっきりと見えてくるはずだ。

 その「希望」とは、何か願っただけで「ボワン!」と煙が出てかなえられるような魔法のようなものでは断じてない。他人が何かしてくれるものでもない。

 何か「やるべきこと」に向けて、自分自身の気持ちを集中させて閉塞を突破しようと目ざし、行動で解決していった果てに見えるもののことなのである。

 そのように「自分できちんと生きたい」と思いつつ、「希望」を内に秘めて日々を送っているあらゆる人にとって、映画『ローレライ』には輝かしい光がいくつも見えるに違いない。

●あきらめない姿勢から浮かびあがる「希望」

「たとえ貴様らが死に損ないであろうと、はぐれ者であろうと、そんなことはいっさい関係ない。いいか、あきらめるな。生き残れるのは、あきらめなかった者だけだ。この船に乗ったからには、俺たちは祖国の最後の希望だ!」

 出港時、絹見艦長が全乗組員に向けて送ったこの薫陶は、オープニングメッセージと響きあい、実際にクライマックスの戦闘で見せる「あきらめない」姿勢と共鳴する。

 これら「闇と希望」を示すメッセージと、その具現化である「戦い」の中からは、実に多様な意味が読みとれる。もちろん《伊507》自体が闇の深海を行く潜水艦であり、ミッション完遂が希望であるというのが一番ストレートな解釈だろう。しかし、描かれていることがすべてではないし、そう単純ではないからこそ面白い。作品というものが成立するのは、複雑で多様で有機的なものが織り込まれ、受け取った人の心と共鳴してパワーを発生するからだ。

 60年前の戦争という古い事象をバックグラウンドに置いているからといって、自分と関係がないという考え方はもったいない。戦中起きたことと戦後のできごと、そして現在から未来へ到る時間軸は、すべて因果の連鎖で綿々と結ばれているものだから。

 だからこの「闇」というのは、2005年に多くのひとが感じている「時代の閉塞」のことも意味しているかもしれない。あるいは世界情勢や天変地異から来る「不安」のことかもしれない。あるいは純然と日常のプロジェクトや仕事を進めるときにぶちあたる「障害」のことでもいい。近しい人との関係の悪化でもいい。

 そうしたネガティブさの「闇」を突破するのには何が必要なのか? それこそが「希望」であると、映画『ローレライ』は伝えている。

 劇中のあらゆるエレメント、物語もセリフも演技も特撮もCGも音楽も効果音も、すべてが一体となってそのメッセージを具現化する。さまざまなシチュエーションを駆使して心情に揺さぶりをかけ、多様な人びとが「希望をもつとはどういうことか」を語りかける。全体の壮大な響きあいから、まさしくその「希望」の像が浮かびあがってくる。

 『ローレライ』とはこのように、時に闇に負けそうになる人を希望のパワーで勇気づけてくれる「志」に充ちた映画であり、その地平で『ガンダム』とつながった作品なのである。(敬称略)

【2005年2月15日脱稿】初出:「月刊ガンダムエース 」(KADOKAWA)