「機動戦士ガンダム THE ORIGIN」愛蔵版用原稿

題名:「機動戦士ガンダム THE ORIGIN」円熟味を増したガンダムサーガ

●ファーストガンダムのビジュアル中枢「安彦良和」

 1979年にTV放映されたアニメ作品『機動戦士ガンダム』(原作・総監督:富野由悠季)が放った衝撃の大きさは、本書を手にとっている方にはいまさら多くを語る必要はないだろう。その後の20数年を、最初の遭遇に受けたインパクトを抱きながら過ごした観客たちと、その後連綿と生まれてきたガンダムファンたちにとって、安彦良和が同作をマンガ化するという大プロジェクトの発表(「月刊ニュータイプ」2001年6月号)は、大きな驚きと格別の期待感を喚起した。

 それは20数年前、『機動戦士ガンダム』(俗に言うファーストガンダム)がブームになっていく過程で、安彦良和が絵的な面において(メカデザインや美術を除く)主要部分の中枢にいたからである。

 改めて整理すると、その役割とは以下のようになる。

1)キャラクターデザイン

2)作画監督

3)アニメーションディレクター

4)原画、レイアウト

5)イラストレーター

 つまり、キャラクターの容姿から性格、その人物が見せる演技、所作、あるいは物語空間の整合性や微妙な雰囲気といった印象を決定づける映像要素から、プロモーション用のイラストまで、安彦良和がビジュアル面を一貫して手がけることで、ガンダムの外的な総合イメージが醸成されていったと言える。

 もちろんアニメーション制作は共同作業で、さまざまなスタッフの積み上げた成果の結晶だから、すべてが安彦発ではない。たとえばガンダムやザク以下、メカ類は大河原邦男のデザインである。だが、ファーストガンダム当時はまだメカ作画監督という役割が確立していなかったため、フィルム上ではモビルスーツも安彦良和によって柔らかなラインでキャラクター化され、大河原デザインとの絶妙な相乗効果をあげている。ヒット商品のプラモデルにしても、映像上のキャラクター的柔らかさの再現を目ざした部分が大きい。

 そうしたビジュアル面の源泉にあたる安彦良和自身の手で、『ガンダム』が改めてマンガとして再編されることは、大事件だったわけだ。だから、当初の期待は絵的な要素に集中していたと見て良い。

 だが、実際に2001年6月に「ガンダムエース」と名の新雑誌が立ち上がり、そのメイン連載として『機動戦士ガンダム THE ORIGIN』という題名でスタートを切ったとき、ガンダムファンはもちろんビジュアル面では期待以上の満足を得られたが、それだけに留まらない、さらなる驚きと感動をもって、この作品を迎えることになる。

●世界観の掘り下げが作品の味わいを深める

 その驚きの発生源は、高度な演出力と物語の語り口、そして世界の拡がりにある。キーワードは「円熟」。安彦良和の作家としての熟成が、ガンダムというサーガに深い味わいを加えたのだ。

 『THE ORIGIN』では、ファーストガンダムのTV版と劇場版の2つのフィルムを原作として物語要素の取捨選択と再配列を行っている。さらに、世界観の再構築とキャラクターの解釈を安彦流にした上で、アニメーター出身らしい実時間性を強く感じさせるマンガとして描くところに、安彦マンガとしての独特の魅力が発生しているのである。

 いくつか例を挙げて説明していこう。まず、世界観に関しては「世界としての厚み」を増加する方向に事象を掘り下げ、さまざまな情報を付加している。たとえば「始動編」では試作機としてのガンダムと連邦軍周辺がディテールアップされ、軍事リソースとしての物量がフィルムよりも増加している。

 サイド7からホワイトベースへガンダムを移管できる状態になっていることを示す、数次にわたる模擬戦が行われた痕跡が、その代表である。さらにそこには管制施設があり、専任のテストパイロットもいて……という具合に、もともとフィルムに直接は描かれていないが、いかにも背後にはあったであろう情報を、現実味を感じさせる方向に大きく膨らませてあるわけだ。

 その結果として、基本設定のいくつかにも影響が及んでいる。

 たとえばフィルムではガンダム、ガンキャノン、ガンタンクは連邦軍がザクに対抗して同時期に開発された新型モビルスーツということになっている。だが、『THE ORIGIN』ではガンダムだけが新兵器で、ガンタンクはザク以前から戦車として使われて来た兵器、ガンキャノンは旧式のモビルスーツと、開発の段階とそれに要した時間を実感させるような布陣としている。

 こうしたことに呼応するように、敵味方双方の軍事的物量にもいたるところ見直しがかけられている。サイド7へ強硬偵察を行うザクは3機から6機に倍増されているし、それを迎撃するガンダム試作機も、後にアムロ機となるものとは頭部形状の異なる機体が先行して登場。これはガンダムを熟知しているファンにも激しいインパクトを与えた。

 1979年当時の一般的なロボットアニメでは、敵味方の基地、周辺の生活空間と襲撃を受けて戦いの起こる場所があるという程度の世界設定で充分だった。それに対してファーストガンダムは、人びとがいるならその背後には社会と世界という、大きく抽象的なものがあり、そこに国家といった巨視的なものが起こす戦争という災禍があり、ロボット同士の戦いもその中での兵器戦に位置づけられるという、ミクロとマクロを明確化した世界観を提示した。そこが画期的だった。

 『THE ORIGIN』もその視点に則った上で、その当時の制作状況では及ばなかった部分の深化を行っている。それは、一人の作家でビジュアル面と物語の面をすべて統一的にコントロール可能なマンガという形式を得て、初めて可能になったことではないだろうか。

●キャラクター像の深化は読み応えに直結

 キャラクター像についても、やはり微妙な部分での深化が随所に行われ、そこが読み応えに直結することで、本作の大きな魅力となっている。基本的な容姿や性格はそのままに残しつつ、絶妙な変化を見せているわけだ。『THE ORIGIN』の世界でキャラクターが動き出せば、そこには新たな生命と意志が宿るから、フィルムの行動をなぞっただけでは済まなくなるということだろう。

 主人公アムロを例にとってみよう。「始動編」における彼の初登場場面では、散らかった部屋やコンピュータへの過度な没頭の様子など、激しいオタク的なものを見せつけてショッキングだった。1979年から数年経って、アムロにもその素養があった「オタク」と呼ばれる人の気質が一般化し、その行動形態も社会により深く認識された。その世情の変化を反映したものだろう。しかし、アムロに「こだわる性格」がより強くなったように見えることの方が、物語的には重要ではないか。

 ストーリー上で関連した部分のリンクが、マンガという媒体では平面的に読み返しが効くことで発見しやすくなる。その結果、アムロの性格描写の連鎖もより明瞭になったように思える。

 たとえば「激闘編」では、初心者でありながらシャア専用ザクを退けたアムロが、ブライトから評価されずに深刻な対立を始めるというシーンが描かれている。続く展開では、ブライトが提案する「敵パプア補給艦を叩く」という作戦を、アムロは意地になって拒絶してしまう。これはTVシリーズでのアムロの行動とは正反対であるが、対立軸の明確化とアムロの性格が微量アグレッシブに感じられることもあり、流れとしてはそれほど違和感がない。また、その姿はサイド7の自室でガンダムの情報収集に没頭していたアムロの「こだわり」ともリンクしてくる。

 キャラクターの微妙な印象の差は、こうした描写の堆積から生じてくるが、それも好ましい方向への深化と見ることができる。

 特にアムロのライバルであり人気を二分するキャラクターのシャアについては、最終回までトータルに把握した上での性格や行動描写が多々加えられていて、これも作品の魅力を増している。

 たとえば補給艦を大破させられた後に、シャアが仮面の下で激昂している「激闘編」の描写は、フィルム初期の「クールな悪役」という印象からは意外性のあるリアクションだ。しかし、感情に端を発したことであっても、シャアならば怒りさえも怜悧に調停して、即時軍事的に行動化していくはずだ。そのシャア独特の行動律は、ある程度コンセンサスとして共有されているものである。

 その結果がシャアの「ルナツーへの強硬侵入」という展開につながり、さらには「セイラ=生き別れの妹アルテイシアとの再会」という、大イベントのアレンジへとつながっていく(フィルム版ではサイド7で再会している)。最初はシャアは見ず知らずの女性だと思ってセイラに近づくが、このときの表情に彼の女性への接し方の一端が見えるなど、より人間臭い深みも描出されている。

 こんな一連の人物描写は、包括的なキャラクター像を得た上で、もう一度『機動戦士ガンダム』という物語をシャアが再演しているという気分につながってくる。『THE ORIGIN』に円熟の芳醇さを感じるのは、こうしたアレンジがいたるところに徹底しているからであろう。

 本作を読むときには、一回目には物語を一気に楽しむように通読し、再読時にはそうした細かい配慮の行き届いた部分やリンクを発見していくというのが、楽しみを大きくするコツなのではないだろうか。

●人間の死を見つめる視座が歴史観を発生させる

 こうした大局的な視点と、対象に接する深さを獲得した『THE ORIGIN』のアレンジの中で、もっともリアリティを感じさせ、琴線に触れるのは「人の死」の描写であろう。アニメーションは集団作業で公共性の高いメディアなので、これは表現の難しい部分でもある。個人の肌触りのする小説やマンガという表現だからこそ、「死」とは改めて本質を感じさせるかたちで屹立してくるものなのかもしれない。

 例を挙げよう。サイド7から難民が脱出する途中、過剰積載をしたために車をエンストさせてしまった男がフラウ・ボウを恫喝する。これは『THE ORIGIN』独自の展開である。セイラの威嚇発砲で身勝手な彼らは置き去りにされ、どういう運命をたどったかは絵で明確には見せない。だが、ホワイトベース出港時には、「酸素濃度が20をきりました。絶望的です」というブリッジの会話が流れるのだ。この言葉が事務的なだけに、逆にかなり深く考えこんでしまうような余韻が生まれる。

 こうした善悪や当否を超えた、戦争という事象ならば当然あり得る淡々とした死は随所に描かれ、物語のトーンを決めている。

 名のある人物の場合、初代ホワイトベース艦長だったパオロの死がひときわ強い印象を残している。ルナツーでの死去直前、大きなテーマのひとつでもある「世代交代」について彼の語る言葉は深い。実は死に顔をそれらしく描くにはかなりの画力が必要なのだが(鼻柱の肉が微量削げる等)、それさえも見事に描出され、次の瞬間には彼の人生がそこに収斂して作品を支える重みに変わる。

 彼がかつて魚雷艇(アタッカー)でキャプテンをつとめたということは、この世界にはジオン公国以前にもさまざまな軍事制圧活動が長期間、積み重なっていたことを意味する。予備役として後進の指導にあたっていた老兵を呼び出すほど激化した対ジオン軍の非常態勢など、短い言葉による情勢のマクロな厚みも、一人の人間の「死」というミクロなものに集約することで、逆に卑近なものとして実感できるというわけだ。

 このように一人の人間が個人史として背負ってきたものが、折り重なって世界の歴史を編み上げていくという重層的な視座が本作に通底していることは、いくら強調してもし過ぎることはないだろう。それは、テロリズムから幕を開けた21世紀初頭において、時代が要求しているものなのかもしれない。

 ガンダムを古典として語り直すという作業において、もっとも必要なものは個から全体を見上げるという姿勢と、過去から未来を見通すという視座なのだ。

 マンガ家としての安彦良和は、ギリシアの神話時代、日本の古代王朝、ローマ帝国、中世ヨーロッパ、あるいは満州を舞台に、歴史作品を数多く手がけてきた。その中で社会の動乱と戦いを個の視点にこだわりつつ描いてきた経験が、オリジナルのガンダムが持つこうした貴重な視点を膨らまし、深めているに違いない。

●絶妙なバランスにおけるアレンジの醍醐味

 以上述べて来たように、本作は単なるフィルムコミック的なものや、映像をなぞるだけのよくある「コミカライゼーション(マンガ化)」のレベルをはるかに超えた、存在感の強い作品である。それは、安彦良和がマンガ家としての矜持をもった明解な視点と主張を持っているからこそ可能になったことで、『ガンダム』のオリジナル・スタッフだというのは理由のごく一部に過ぎないことが、ページを読み進むにつれて明瞭になっていく。

 もちろん富野由悠季監督を中心に作りあげられたファーストガンダムの世界観やテイストは、きちんと継承されている。20数年にわたり多くの観客に親しまれてきたファーストガンダムのフィルムと等質だと感じさせる要素を押さえた上で、深みを増した部分が感動に直結する。

 このアクロバティックなアレンジの妙味は、作品が認知された今では当たり前のように聞こえるが、実は奇跡的なバランスの上に成立したものではないか。

 今回、大判になった紙面で一気に長いブロックを通読可能になった機会に、そういった奥の深い部分を再発見しつつ、楽しんでいこうではないか。

【2005年4月4日脱稿】初出:「機動戦士ガンダム THE ORIGIN」愛蔵版Vol.1(KADOKAWA刊)別刷りのため、現在では入手できない可能性があります。