2大商品は「あずきバー」と「肉まん」
実に全国のスーパーの9割が置いているというアイスの「あずきバー」(6本入り、356円)。1本わずか60円の、世代を超えて親しまれている国民的商品だ。家庭では、溶かして様々な料理作りにも活用されており、そのメニューがネットなどを通じて広がっているという。
1973年、「あずきバー」は日本で初めての小豆のアイスとして井村屋が発売。以後、売り上げを伸ばし続け、年間2億5800万本を販売する人気のロングセラー商品だ。
井村屋といえばもうひとつロングセラーがある。コンビニのレジまわりにある「肉まん」や「あんまん」。「肉まん」はもともと、中国ではタレにつけて食べていた。それを1964年、井村屋が初めて中身の具に味つけをして発売。今や当たり前の商品として普及している。
井村屋の本社は三重県津市の郊外にある。朝9時。その駐車場の一角に大行列ができていた。
ここは「もったいない屋」という週に1度開かれる井村屋商品の特売所。確かにカステラが1本200円など、どの商品も激安価格。実は、食べるのは問題ないが規格ではねられてしまう規格外商品を販売するコーナーなのだ。
例えば並んでいた「くずまんじゅう」の規格外商品は、真ん中にあるはずのアンコが端によっている。これでは一般で売ることはできない。そんな捨てるにはもったいない商品を、地元の人に安く提供しているのだ。
1本60円に詰まるこだわり~独占潜入!あずきバー工場
井村屋の工場では1本60円の「あずきバー」作りに執念を燃やしていた。
1日1億粒を扱うという小豆の選別では、まず最初に特注のふるいで、決められた大きさの小豆だけに選り分ける。ふるいには、上下2層に違う大きさの穴があいた網がセットされている。欲しいのは上の7ミリの穴を通過し、下の5ミリの穴よりは大きい豆。このふるいを通る、決められた大きさのものだけが「あずきバー」に使うことを許されるのだ。
でも選別はまだ序の口。大きさの次は重さで選別する。選別機では下から風を吹きつけ、比重の軽い物を吹き飛ばす。これで小豆の皮や割れた物も取り除かれる。
選別は全部で5段階ある。最後に登場するのが最新鋭のマシン。空中を走る小豆を上下についたカメラで撮影。色のわずかな違いを識別し、規格にあわない豆をエアーで下へ落としていく。
これらの選別で1億粒の小豆の中から200万粒が取り除かれる。大きさや品質を均一にすることで、小豆を炊いた時の炊きムラがなくなり、美味しくなる。これが井村屋のこだわりだ。
ちなみにはじかれた200万粒もちゃんと役に立っている。小豆の一部をお年寄など近隣の人々のお手玉作りに提供。学校などに配られているのだ。
選別の次は小豆を炊く工程。ところがこれは撮影禁止。炊き方が難しい小豆はそのノウハウ自体が財産。見せないのもこだわりだ。
さらに炊き上げた小豆からアイスの元を作る、その材料にもこだわりが。「あずきバー」の原料は、小豆の他、砂糖、塩、でんぷん、水飴のわずか5種類。生産管理部の小井一浩は「通常のアイスクリームは安定剤や乳化剤を使って固めていますが、『あずきバー』は添加物を使っておりません。それによって小豆がしっかり固まります」と言う。「あずきバー」といえば独特の硬さが特徴だが、このシンプルな原料が硬くなる理由だというわけだ。
生産ラインで次々に流し込まれる先は、おびただしい数のアイスの金型。するとすぐに周囲から凍り始めた。ここで1秒でも早く凍らせることが、「あずきバー」の美味しさを左右するという。
通常、小豆の粒が入った原料を型に入れると、小豆は徐々に下へと沈殿していく。これでは小豆が偏ってしまう。小豆をアイス全体に行き渡らせるには、できる限り早く固めるしかない。すぐに固める冷凍技術が、どこからかじっても小豆が入っている美味しさを生んでいるのだ。
そしてアイスの中心部、まだ凍っていないところをめがけて、棒が突き刺されていく。
1本わずか60円のあずきバーだが、様々なこだわりが美味しさを支えている。これが年間2億5800万本のロングセラーの秘密だ。
小豆を極めるプロ集団~創業120年老舗企業の挑戦
井村屋グループ会長の浅田剛夫が自慢の商品を紹介してくれた。「お赤飯の素」は、白米に入れて炊くだけで、まるで餅米で作ったようなモチモチの赤飯が炊けるのだという。
さらにチューブ型の商品「つぶあんトッピング」は、「名古屋の方はトーストにバターを塗ってあんこをのせるでしょう。缶を開けず、このまましぼり出せる商品はないかという発想でできました」(浅田)と言う。
井村屋のビジネスを支えるのは様々な小豆を使った商品だ。スーパーの売り場をのぞくと、定番の「ゆであずき」の缶詰に、お菓子売り場の「ようかん」。贈答用に人気の「水ようかん」も井村屋。ロングセラーの「肉まん」も、実は「あんまん」から派生した商品なのだ。
井村屋は小豆商品を武器に成長を続け、昨期も増収増益の最高業績をたたき出している。
「基本的には小豆のいろいろな食べ方を提案していくということです」(浅田)
都内のスーパー「東急ストア」中目黒本店で、井村屋が新商品の試食販売を行っていた。その名も「煮小豆」。見た目は小豆を煮ただけのシンプルな感じだが、今までにない切り口の小豆商品だ。
開発部では「煮小豆」の使い方を客に伝えるため、提案用のメニューづくりが行われていた。気軽に日々の食事で使ってもらうのが目的だ。
今、井村屋が取り組むのは、健康にいい食品としての小豆の商品開発。研究の結果わかったのは、「小豆は食物繊維が多く脂質が少ないので、ヘルシーな豆」(技術戦略部・近藤修司)だということだ。そんな中で、あるものに目を付けた。
様々な商品づくりで大量の小豆を使う井村屋。その行程で、毎日捨てていたのが煮汁。ところが、「小豆の皮に栄養成分アントシアニンやポリフェノールが多く含まれているのですが、煮汁に流れ出てしまいもったいない」というのだ。今まで捨てていた、煮汁に含まれる豊富な栄養成分を商品に生かせないか。そして開発されたのが、特殊な製法で、煮汁をそのまま小豆に閉じ込めた商品が「煮小豆」だった。
「これからは『煮小豆』のように小豆の素材の良さを生かす商品開発が出てくると思います。小豆を生かすということです」(浅田)
徹底的に小豆を追求することで、井村屋は成長してきたのだ。
「人のやらないことをやれ」~伝説の男・井村二郎の教え
井村屋は挑戦的な商品でヒットを掴んでいる。例えば「やわもちアイス」(140円)は、アイスなのに餅本来の柔らかい食感を実現した。2012年の発売以来、累計1億個を売る。開発部が挑んだのは、アイスでいかに餅の柔らかさを保つか。そもそも餅米でつくる餅は、冷やすと凍って固くなる。それを独自の製法で解決したという。
一方、「東京ビッグサイト」で開催された展示会で井村屋が売り込んでいた商品は「スポーツようかん」。身体に吸収されやすい糖質マルトデキストリンを配合した今までにない商品だ。スポーツ時の栄養補給をターゲットに羊羹の新たな市場作りに挑んだ。
創業以来、井村屋の勝ちパターンは、小豆をベースに斬新なアイデアを加えた商品開発にある。
そんな井村屋は、1896年、三重県松阪市に井村和蔵が起こした羊羹屋が始まり。和蔵は変わった商品でヒットを生む。客をつかんだのは、四角いお盆に羊羹を固め、それを切り売りするというユニークな商品だった。
第二次大戦後、その井村屋を託されたのが息子の二郎。戦地から戻った二郎は、職のない戦友たちを集め、井村屋の株式会社化を決意する。そして挑戦に打って出る。ガムやビスケットの製造など欧米の菓子作りにも取り組んだ。二郎は「即席ぜんざい」など、小豆を使ったこれまでにない商品でも次々にヒットを飛ばした。
1960年代に入ると、二郎はさらなる挑戦へ。それが急速に拡大していたアイスクリーム市場だった。
すでに並みいる大手メーカーが様々な商品を出していた。井村屋も大手に負けないアイスを作るべく研究に没頭。様々な商品を投入したが、結果は、惨敗だった。するとある日、井村二郎が驚きの指令を出した。
当時を知る元井村屋の開発担当、福田映さんによると「ぜんざいをそのまま凍らせたらどうだ。やってみろ、と」。二郎は創業以来の小豆の技術を生かし、今までにない商品開発を指示したのだ。1973年、試行錯誤の末、完成したのが「あずきバー」だったのだ。
同じ年、二郎はさらに驚きの行動に出る。大阪万博が開催された1970年に井村屋に入社した浅田は、まだ4年目の駆け出しのある日、二郎から驚きの新規事業を任される。それがアメリカ発祥のレストラン「アンナミラーズ」の運営だった。
アメリカを視察した井村二郎が、日本での店舗展開のライセンス契約を取り付けてきた。店員の可愛らしいユニフォームと海外の家庭的なスイーツは当時、斬新だった。
菓子作りしか知らない二郎が決断したきっかけは、看板メニューのパイにあった。
「レストランビジネスの経験はないけれど、『売っているのはパイだ』と。出店の一番の原点は『東京にもないスタイル』。どこもやっていないということがアンナミラーズを始める原点のひとつでした」(浅田)
そんな二郎が目指した他にないものへの挑戦は今も続いている。東京都港区にあるおしゃれなスイーツの店「ラ・メゾン・ジュヴォー」広尾店も井村屋が運営する店だ。
南仏プロヴァンスの小さな街で親しまれる家族経営の店、「ジュヴォー」と契約し、アットホームな雰囲気そのままに、東京に持ってきた。井村屋の菓子づくりのノウハウも生かされたスイーツはどれも珍しいものばかり。人気のメレンゲ菓子「ロカイユ」(216円)も、独自の食感が味わえる斬新なスイーツだ。
「『ジュヴォー』は昔から他にない商品をやっており、井村屋の創業の理念にも同じような言葉があった。独創性のある商品を大切にしながら今に至っています」(佐々木康行店長)
三重県の田舎町から、持てる技術とアイデアで様々な挑戦をしてきた井村屋。その真骨頂を、2006年、晩年の井村二郎が社員の前で語った貴重な映像が残っている。
「よそにないものを作らなきゃいけない。マネはするな。マネはたくさんされた。マネされるぐらいのものを作らないといけない」
当時、91歳の二郎はそう語っていた。
副社長は肝っ玉母さん~女性の活躍で業績アップ
浅田が、最近お気に入りだという商品を見せてくれた。女性のイラストが描かれたどら焼き「みえどら娘」。三重県で活躍する女性がテーマになっている。浅田は女性が活躍する姿が大好きなのだという。
「女性活躍推進なんてことを一生懸命言ってますが、三重ではこれだけの女性が活躍していることをアピールしているんです」(浅田)
井村屋でもさまざまな部署で女性が大活躍している。会長の浅田を前に商品のプレゼンをするのも女性開発者。井村屋では、開発部の4割が女性だという。仕事を任されることでモチベーションも上がる。重い小豆の袋を持ち上げるのもたくましい女性社員だ。
長年、営業で全国を飛び回ってきた中島伸子は今年、井村屋グループの副社長に昇進した。しかも、3人の子育てもしっかりこなしてきた。
「朝は5時45分か6時に家を出て、帰りは夜9時、10時。特に北陸支店長のときは大変でした」(中島)
そんな女性たちを会社も全力で支える。井村屋本社から徒歩1分のところには社内託児所が。働いている最中でも様子を見に来ることができる。
様々な制度を作り、徹底的に女性が働きやすい職場を作ることで、どんどん女性のリーダーも育っているという。
そして中島のもとで行われるのは「職場改善ミーティング」。さらに女性が働きやすい職場を作るための定期的なミーティングだ。
「潜在的能力を持っている女性はたくさんいると思います。それをどう浮かび上がらせ、能力を発揮させるか。まず場を与えることが大事ではないでしょうか」(浅田)
小豆と女性が大活躍する会社。それが井村屋なのだ。
~村上龍の編集後記~
「あずきバー」を知らない人はたぶんいないかも知れない。まさに、理想の商品だ。
実質的創業者の井村二郎は、生死をともにした戦友たちと会社を作った。
独創性と先見性に優れ、「人のやらないこと、人が真似するようなことをやる」という姿勢を貫いた。
無類の新し物好きだったらしいが、世に送り出した商品は「決して飽きない」ものばかりだった。
話題の新商品や食べ物屋に長い行列ができる国で、「飽きられないもの」を生み出すのは非常にむずかしい。
井村二郎の精神は、浅田さん率いる現代の「井村屋」に脈々と息づいている。
<出演者略歴>
浅田剛夫(あさだ・たけお)1942年、三重県生まれ。中央大学卒業。1970年、井村屋製菓入社。2003年、代表取締役社長就任。2013年、井村屋グループ会長就任。