究極のメタ怪獣映画『長髪大怪獣ゲハラ』

 怪獣映画という手法で怪獣映画それ自体を描き、その存在を照射する「メタ怪獣映画」。ある種「究極の怪獣映画」とでも呼ぶべきものだということに気づいて、まずは参った。

 開巻は、やはり漁船の遭難からスタート。襲撃者の全身像が不明なうちに事態が進展し、怪獣の仕業であることが発覚。唯一の生存者が救助されて病院に収容され、政府や科学者が危機感を抱くという映画の導入部から、すでにして「お約束」が全開である。

 ここでいう「お約束」とは、「怪獣映画とはこうやって観客を楽しませてきた」という段取りやセリフ、シチュエーションその他もろもろ手練手管の総体を指す。

 第一被害者が船員なのは、海に囲まれた島国・日本の「外」から敵が迫るという構図の暗示。昭和な(今では失われた団らんという)雰囲気のちゃぶ台でする食事風景は、日常風景からの入り口。主人公の新聞記者という設定は、足で稼いで事件を追うアクション主体で物語を転がすための宣言。寒村で進む謎の儀式は、荒唐無稽な怪獣に神話的な根拠を与えるもの。いちゃいちゃして襲われる被害者は、ジェイソン君に惨殺されるカップルと同じく観客の無意識の罪悪感を触発するもの……などなど。

 まったくもって、セオリーどおりである。

 本作が巧妙なのは、怪獣映画の古典からのストレートな引用を避け、いくつかの映画を元ネタにしたイメージをコラージュないしパッチワークのように組み合わせ、配していることだ。このイメージの離散化によって「直接引用」(身も蓋もない言い方をすればパクリ)という印象を避けて、本来的な意味でのパロディに昇華している。つまり「あはは、確かに怪獣映画ってこんな感じ」と観客が原典のエッセンスを笑いながら批評的に顧みることができるという意味において、パロディなのである。

 そして一瞬でいろんな過去作からの「格好いい映像」の要素を渾然一体としながら提示していく見せ方が、本作の濃度を上げている。冒頭のシークエンスにしても『サンダ対ガイラ』の「嵐の中の大ダコ襲撃」と、もう少し後にある「ガイラの水中からの覗き返し」を同時にまとめる手際の良さが光る。

 しかし水面下にカメラが移動すると、ゲハラは立ち泳ぎをしているという、「白鳥が見えないところで努力を云々」のたとえのような、前に江口寿史のギャグマンガで読んだような気がするぞこれはみたいな、当惑も同時進行で走っていく。

 都市破壊シーンになると、田口清隆監督ならではの映像テイスト全開。カメラがこっちへ動いていけば合成は来ないだろうと思ってるところに、怪獣が意外な角度で侵入してくるときに発生するワンダーの感覚。既存の怪獣映画からの引用ではない「日常風景への侵入者」の、あたらしいかたちでの怪獣描写も満載なのだ。単に古きよき怪獣映画を回想して封じこめるのではなく、「こういうのが見たかった」方向での可能性も存分に示しているののは実に気持ちがいい。

 とにかく「マジっぽい描写の中でいきなり転がるギャグ、ギャグの中に立ち上がる怪獣映画ならではの格好良さ」というベクトルの急激な遷移、切り返し、短時間であまりにいろんな視点の交錯が脳に充満したときの妙なトリップ感は、本作だけのユニークなものである。曲がりくねった山道を高速でドリフトしながら突進していくような勢いが、この作品の見応えの正体なのだと思う。

 だから『地球防衛軍』っぽい変なガイジンがパラボラ兵器を導入しても、「ああ、時代がくだったんですね」と妙な納得が発生するし、その機構がピアノスイッチも懐かしい昭和の扇風機であったり、突風の中で「いや~ん、まいっちんぐ」が発生して、「よし!」というリアクションがあっても、許せてしまう。

 こうしたマニア向けストライクゾーンを意識した「笑い」は、「はいはい、そうです。自分ら怪獣ファンはこういうのが好きなんです」という自嘲的なものでもあるが、その油断でガードが低くなった直後に本気度の高さを剛速球でぶつけられると、ショッキングだ。「すいません、こっちの方も、まさに本気で好きなんです」と頭を下げざるを得ない。そんな感じで、現実でない遠い世界に連れていかれる感覚満載の映画であった。

 そもそも「お約束」はなぜ発生するのかと言えば、あらゆるジャンルムービーにはまず始祖があって、その魂の継承、その革新のせめぎ合い、双方そろって生まれるものである。怪獣映画で言えば始祖の『ゴジラ』の作りあげたフォーマットは、後の怪獣作品の数々に継承されていったが、単なる反復ではなく冷戦構造を前提とした「怪獣対決」や宇宙開発を取りいれた「宇宙人の介入」など、始祖にはない革新的な要素も加わって、ジャンルを豊かにしていく。

 こうした繰り返しの果てに成長していった「お約束」。それを短時間に濃縮したらどうなるかという「メタな構造」は、もう一度、始祖にある熱気をつかみ直すためにも必要なものだったのだろう。

 なあんてコトを考えつつも、エンドマーク近くになって、「それはそれとして、怪獣映画の全部が入っているというわりには、なんだかちょっと物足りないよなあ」と、つい思っていたのは、さらなる油断だった。まだ悪質なトラップが残っていたのだ。またしても引っかかってしまった。

 この作品の本当の驚きは、「終」の文字以後に始まる。

 X星人の円盤まんまの捕獲光線(飯塚定雄作画なので、フォルムもタイミングもオリジナルのままだという)。怪しいグラサンで量産された銀ラメのテリー宇宙人。ああっ、これは平成ガメラの感覚。ええっ、ウルトラマンも? という、驚きの数々が、バッドトリップ的感覚に変わっていく、恐怖と笑いの体験。四十年ほどの時間を数秒単位で凝縮した時間感覚の中で立ち上る「確かにこれなら《全部入り》だ」という驚愕の認識。

 ただでさえ濃いゲハラ本編を、十倍速&十倍濃度にしたような、予告編パート。脳内に何だか妙な化学物質が出る、あの至福の感覚もコミでこの映画は成立しているのだ。その予告編に、本編への批評的な視点が含まれているのもすばらしい。

 この時点で『ゲハラ』は「怪獣映画へのオマージュ」を越えた「何か新しくスペシャルなもの」になったのだと思う。

 とは言うものの……。まだもう一段、どんでん返しがこの映画には用意されていた。

 「さあ、それじゃもっかい観てみよう!」

と、当然のことながらオンエアが終わった直後、あの楽しさを求めてすぐさま録画をリピートしたとき、大変なことに気づいて、さらに愕然としてしまった。だって、「怪獣映画の楽しさのすべて」が、たった十五分の尺で描けてしまうのだったら、「自分が今まで人生で費やしてきた時間って何だったんだ?」ということにも、なりはしないのか。

 うーん。この先、本当に怪獣映画はどうするんだろう?

 そういう意味で、、楽しくも困った総括を完遂してしまった怪獣映画が、私にとっての『長髪大怪獣ゲハラ』なのである。

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<近況欄>

『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』は、仕事を越えた楽しさ・興奮満載の映画でした。個人的にものすごく満足したんですが、周囲の反応が良いので二度ビックリ。「なんだよ、みんなまだこういう巨大生物が大暴れってのが好きなんじゃないかよ」と苦笑しつつも、だったらまだまだ怪獣映画やアニメにもやれることがあるんだろうなと、ちょっと嬉しくなりました。

【2009年7月19日脱稿】初出:同人誌「特撮がきた!」(開田無法地帯)