※2005年の映画『ULTRAMAN』に関する原稿です。
「再演」「新釈」というリメイクは、映画に限らず芸術の手法として古くからあるものだ。シェイクスピア劇などが典型で、舞台での誰だれ演出ものというスタイルはもちろん、黒澤明が『マクベス』を時代劇に翻案するなど、応用は幅広い。
そういう行為を通じて時代に応じて何度も語り直されたものが「古典」として生き抜いていくわけで、そういう点では『ウルトラマン』第1話「ウルトラ作戦第1号」を現代風に解釈した映画『ULTRAMAN』の発想は間違ってはいないし、翻案の手業や姿勢も確かなもので、特に間違っているところは感じない。
また、アニメのミサイル射出方法を一変させた板野一郎がスタッフに加わったのも空中戦映像に新風を吹き込み、前半の一〇メートルくらいのヒーロー対怪獣を閉鎖空間で戦わせるシークエンスともども、ビジュアル的な満足度も高い。
なのに……この寒々しい違和感は何なのだろうというのが、率直なる感想だった。
一番の原因は、これが『ウルトラマン』のリメイクなのにもかかわらず、「あれ? これって怪獣映画じゃないや」と感じてしまったことだろう。今回は、そこを語ってみることで、怪獣の本質についてもう少し考えてみたいと思う。
ターゲットに相当する「ザ・ワン」は、「ベムラーにも人格があったら」という発想から生まれている。これは、『ウルトラマン』のオリジンにあたり映画『ヒドゥン』にも参照されたとおぼしきSF小説「二十億の針」(ハル・クレメント)がそうなっているので、だからそういう意味では間違ってはいない。
ザ・ワンのデザインもベムラーの口回りのトゲトゲしい積み重ね、ギョロリとした丸い目などの意匠をちゃんと引用していて、そういう発想は好き嫌いで言えば好きである。ところが映画を見ているある瞬間に、「これでは怪獣じゃなくて"クリーチャー"ではないか……」と思った瞬間、ふと醒めるものを感じてしまったのだ。
人間を含めた動物の生体を取りこんで成長していく。それが、ザ・ワンの特徴である。そこで形態の急成長と変化を短時間に見せていき、悪魔的なものにまで到るプロセスが、まず映画的なビジュアルの見せ場になっている。その上に、対立するウルトラマンネクストも同じように怪物扱いされていくという点がドラマを成立させていくわけで、最後にヒーローと認知される落としどころも含め、そういう意味では本当に何も間違ってはいない。
ザ・ワンを追う者と取りこまれた者が恋人同士だった、というドラマのもうひとつのポイント、家族持ちの中年主人公の自身の運命への不安というさらなるドラマのポイントにしても、映画という長尺を成立させるためには必要なのだろう。
しかし、こういった要素が観客たる自分の中で妙に化合していかないのである。それを阻むものが、先の「だって、これ怪獣じゃないじゃん」という気持ちだった。
自分が怪獣に求めていたのは、やはりセンス・オブ・ワンダー、「ええっ、こんな生き物が?」という驚きだったのだ。それはこういう人体侵略エイリアンっぽい説明がつけばつくほど、理屈がシンプルな驚きを遠ざける。言ってみれば、「こんなヤツ、いるわけがない。でもいる!」というのが驚きの感覚なのだが、「これはこうだから、ほらいるかもしれないでしょ」と言われると、不思議なもので冷めてしまう。押しつけられると引くのが人間なので、フィルムの側は押さずに惹いて欲しかったのだ。
同時に必要以上に粘液体液、皮膚感を強調して生理的な「生物っぽさ」を前面に出しているのが、「クリーチャーっぽい」という感触につながる。成田亨デザイン・高山良策造形にも生理に訴えかけるものはもちろんあるのだが、そこはソフィスティケートされていて生々っぽさは排除されていたと思う。なのに生物として、映像の中だけで成立しているという不思議さが、やはり驚きの感覚へとつながっていくわけで、それがこの映画には欠落しているのだ。
同じことは、ウルトラマンのキャラクター造形にも言える。初代マンのAタイプに相当するであろうシワの多い顔が当初の姿で、それが最終的に巨大化に成功するとBタイプのように磨いたような光沢を獲得するという、そういう歴史的なこだわりは良いと思う。しかし、これにしても感心はするけど感動はしない。
いま近くに初代マンAタイプのリアルなソフビ人形が置いてあるが、凄く変なプロポーションとポーズをしている。手足がひょろ長くて顔はデコボコだし、かと思うと尻や股間は妙にでっぱっていて、人間の裸体のカリカチュアを連想させる。なのに決して人間ではなく、宇宙から来た変なヤツという存在の主張がそこにはある。
一方、ネクストでは「(強殖装甲)ガイバーみたいだなー」とふと思った瞬間に、何か気持ちの中に萎えるものが発生してしまった。隙間から見えている筋肉状の組織が、初代マンのあの赤い模様に相当しますよ……というのはすぐわかった。これもまたさっきの「説明くささ」に一貫している部分なのだが、これについては感心すらしなかった。そういうこと以前に、赤いキズが空気に触れてヒリヒリする感じがしてきて、別に初代マンの赤い部位にはそういう血を感じさせる痛々しさはなかったし、そんなリアルさを観たくて来たわけではないんですけど……と、やっぱり引いてしまった。
これぞ決定打の原点回帰、昔の作品を大人向けにリニューアル! という一種の「気負い」「気取り」のようなものは、子どもが読めないように英文にしてしまったメインタイトルが象徴している。それこそ30年も前からファンの間で言われてきた「大人の鑑賞にも耐えるものを」という言葉は、やはり怪獣映画にかかってしまった呪縛のようなものなのかなあ、などとも思わされた。
おかしいな……と自分でも思う。
こういったリアルな裏づけのあるウルトラマン、いま現実になってもおかしくないドラマ、子どもっぽさを排除したテイスト、「大人の鑑賞に耐えるウルトラマン」はむしろ望むべきものだったはずなのに。
前から折に触れて言っている個人的に理想の怪獣映画とは、『フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ』のようにリアルな社会の中に怪獣という異物が入ったら、どんな驚きが起きるかというシミュレーション映画っぽいものであった。ドラマやストーリーがほとんど存在しない『サンダ対ガイラ』に対して、『ULTRAMAN』ではちゃんと大人向けのそれも入っているから、理想の怪獣映画のはずなのだ。
ひとつの原因は、先に『ゴジラ ファイナルウォーズ』を観てしまったということがある。個人的な怪獣映画度メーターの針は、そっちの方が百倍は触れてレッドゾーンを突破、保護ガラスを割ってしまった。壊れたメーターで『ULTRAMAN』を観たのが良くなかった可能性はある。
そんなわけで『ULTRAMAN』を否定しているわけでもないし、むしろ姿勢には好感を覚える。好きだという人の意見もきっと理解できるだろう。しかし、この違和感はなんなんだという思いには、ウソはつけないということである。
感心はしても感動はしない……そこが引っかかりの根にあることは、この機会に見すえておきたいことだ。
今回、非常に強く感じたのは、四十年という時間の持つ重み。パラダイムの違いである。
初代の『ウルトラマン』ではハヤタ隊員にほとんど私生活はない。個性、キャラクター、ペルソナ、場合によっては感情でさえ怪しいものだ。だから「ハヤタをめぐるドラマ」というのは、変身できるかどうかぐらいのもので、特に終盤はハヤタがブレない分だけイデやアラシがブレてドラマを形成するエピソードが目立つようになっていく。例外的にハヤタが感情を見せる『怪獣墓場』が強い印象を残すのもそのためだ。
その無個性さが逆に『ウルトラマン』の一種の魅力になっている。当時の小学生憧れの職業であった、パイロットや警察官はあくまで社会的な役割で、感情を抑えて社会がきちんと機能するようにお務めを果たす人が格好いい、ヒーローになる資格があるという、これが六〇年代的なパラダイムだった。それは社会が一丸となって生産に励まないと、日本は豊かにならないという高度成長の神話、洗脳の現れの一端なわけである。
ところがその後はそういった独善的な繁栄を目ざすのは、他人を踏みつけにして傷つける悪だというパラダイムがベトナム戦争、公害の結果出て来て、さらには生活の不安がなくなったことが、「個」および最低の社会単位である「家族」というもの認識の肥大化を招いた。ドラマの結節点になる判断基準が「感情」とか「快不快」に傾きがちなのは、今回の映画に限らず特撮ドラマやSFアニメ全体が置かれている状況だと思うが、今回期せずして四十年前の作品のリメイクということを通じて、そうしたことも改めてあらわになったと思う。
そう考えてみると、『ULTRAMAN』は職業よりも家族を取るというアンチ・ハヤタ隊員的な主人公像とドラマが中心になっていて、現代的リメイクというのが非常によく考えらて、一種の主張をもったストーリーであることがわかる。戦闘機の銀翼への憧れが、ウルトラマンの銀のイメージにつながるなんてあたり、評論文ではよく言われていることでも、ああいうかたちで実作に取りこむのは至難のはずだから、よくできている。
初代『ウルトラマン』から四十年前と言えば昭和元年なわけで、それを思うと昭和四十一年(一九六六年)が持っていた時代の空気や考え方全体が、すでに風化してファンタジー化しつつあるのかなあ、というのが実感であった。
映画では『ゴジラ』が終わり、TVの『ウルトラマンネクサス』も打ち切り。このリメイクが歴史の新たな断絶に結びつくのだとしたら、それはすごく残念なことである。何かここにもうひとつ触媒があれば爆発できたのかもしれないなあと、基本は応援モードでの違和感検証ということで、ご理解いただければ幸いである。
【2005年3月6日脱稿】初出:不詳