『ローレライ』の貫いた「志」

※2005年の原稿です。

 映画『ローレライ』については、対談本「ローレライ、浮上」(講談社刊)で樋口真嗣監督と福井晴敏氏から濃密な話を聞いて、まとめさせていただいたという経緯がある。その上、編集部依頼で「月刊ガンダムエース」誌(角川書店)でも、自分の連載枠を2回分使って述べた。

 ヒットもしたし、今の気持ちは「良かった良かった」である。なんだか他人の作品のような気がしなくなった部分がある。

 ただ、せっかくこういう場をいただいたことでもあるので、いつものことではあるが、同人誌でなければ書けなさそうな傾向のことを、思いつくまま残しておきたい。

 映画自体の感想について、ある程度の成果が出たことを踏まえて、改めて率直なところを述べておきたい。

 対談本を担当した余録で初号試写に混ぜてもらったわけだが、イマジカ試写室という音響の良い環境(THX対応)だったこともあって、非常に映画を楽しんだことを記憶している。

 樋口真嗣監督に抱いていたイメージをずっとさかのぼると、もちろん平成ガメラシリーズの特技監督ということもあるが、本編演出と言うと、どうしても「『ふしぎの海のナディア』で島編を担当」「『エヴァンゲリオン』でアスカ初登場」ということから離れられなかった。

 つまりトリックスター的な存在というか、ある程度のシリアス性が続いた中で、不真面目にも取られかねない混ぜっ返しをするような、そんな印象があった。実際にナディア島編はギャグ満載だったりするし、あの物語的には停滞した中で笑いベースにキャラを深化させる手法は、実はシリーズ構成的には「そろそろ島編でヨロシク」などと、業界スタンダードになっているとも聞く。

 また、『平成ガメラ』や『さくや』のような特撮の演出も、リアリティを追求するというよりは、むしろ外連味満載、過去の映像記憶を数十倍に増幅するようなパワフルなものだった。

 ところが実際に樋口監督が『ローレライ』でやろうとしたことは、もっともっと真摯なものだった。ある種の極限状態のなかでの緊張感、追いつめられた者たちの持つ心情のぶつかりあい、そういったエモーショナルなものであった。

 ドラマツルギーで言うところのエモーションの推進剤ともなるものは、日本語で言えば「葛藤」。でもこの言葉は、ツタとフジがウニャウニャと絡みあったドロゲロの陰湿な、怨念的な心を現すイメージがある。だが、これはハリウッド脚本術的に英語で言えば、「コンフリクト」となる。いま和英辞典を開いたが、葛藤からひくと「コンプリケーション」などになってしまい、コンフリクトとは対置されていない。

 つまり微妙に違う。仕方がないので「conflict」の方から引いてみると、これは「人、意見、感情、利害などが衝突・対立する、不一致、不調和」とあって、「葛藤」もその中にある。映画というのは物語のある場合、実は徹頭徹尾、ロジカルにできているもので、そういう点でも英語系民族の方が得意、有利なのだ。

 コンフリクト、これは実はソフト用語でもある。パソコンにドライバーをインストールし過ぎたりすると、不調になったりする。「アレがぶつかってんだよ」云々と言ったりするが、そのぶつかりが「コンフリクト」。こちとらソフト開発も経験済みだが、競合条件とかそういうのを整理しないとソフトウェアとして完成しないということを知っていて、そうした条件の競合もコンフリクトと呼ばれる。

 言ってみれば、ドラマというものは、こうしたコンフリクトをどう描出して、観客をそこに導いて行って共感させ、感情を揺さぶるかということに尽きる。

 その中でも、あるアイテムに対する対立軸を置いて、その双方に均等な納得性を持たせながらも、激しくぶつかり合わせるというドラマは、究極の緊張感をもたらす。これはけっこう日常性を離脱させて身体を拘束させる映画には必要なもので、逃げ場のない潜水艦映画はそこに向いている。

 対談本でも事例として挙がっていたと思うが、『クリムゾン・タイド』などはその圧縮感というか、究極のコンフリクトが描かれていた。で、そういうことは理屈ではわかっていながら、実際はどうなんだろうかとか思いながら試写に臨んだ。

 ちなみに原作というか小説版『終戦のローレライ』を読んだときの「あれ? こういう話なの?」という危惧は、これはどこかで書いたかもしれないが、良くも悪くもあまりに「ガンダム的」だったということだ。

 フリッツのファーストネーム問題から、パウラが「性格のいいクェス・パラヤ」に見えたりすること、あと征人がレコードをかけている家に立ち寄ったりするのは「めぐりあい宇宙」のララァ白鳥のシークエンスみたいだなあ云々、枚挙にいとまがない。

 これは原作者の福井晴敏氏の話を聞き込めば、別にわざとやっているわけではなく、血肉になっているのだということがわかるわけだが、一般読者にはそれはわからない。

 そういったことが、フィルムになったときに違和感となって屹立したりしないのか。どう「見えるのか?」が、多少の不安でもあったわけである。

 誤解を避けるために補足しておけば、こういった「ガンダム臭」はおそらく小説としての本質的評価にはあまり影響は与えないだろう。福井氏の事実を積み重ねて、意味性の連鎖のようなものを構築し、その連鎖全体で人間の行動と感情とに立体感を与えるという作法には実はいたく感心してしまった。

 こういう場だから恥ずかしい告白もしておくと、「ああ、この方法があるなら、自分にも小説は書けるのかもしれないな」と思ったことも付記しておく。本当に誤解があると困るのだが「福井さんのレベルの小説が」ではない。そういうことじゃない。

 それこそ20歳になるかどうかのころ、お世辞だったとは思うのだが、師匠筋から「君は小説を書いた方がいいんじゃないの?」とか言われたことがあった。そのときは、実はピンと来なかった。創作能力というものが、自分には決定的に欠けているように自己評価していたからだ。あくまでも、出来たものをどう評価するかに意固地になっていたのかもしれない。また、小説とは情動を描くものだとするならば、それ自体にあまり興味がなかったとも言える。

 しかし、それなりに歳もとってきて、いろいろと言いたいこと表現したいこともできてくる中で、福井小説のように、何かしら観察と調査に基づくものを重層的に積み上げていくことで、かつて違和感を抱いたことも何かしら乗り越えるように思えた。

 話を『ローレライ』の方に戻そう。

 この「小説&映画」のもたらすもの、感情への揺さぶり感覚がなぜ気持ち良いかということだ。それは、つい今ポロっと言ってしまったような(読み返すとゲゲっとなったが放置しておく)、「ああ、本当は俺たちって、こうしたかったんだ」という、観客自身が自分の中にも持っている何ものか、ある種の秘めたる願望、抑圧された「志」のようなものを引きずり出すようなところが多々あるからなのだろう。

 カタルシス(浄化)と呼ばれるものは、ジャンプ系マンガやゲームの影響か、近年ひどく誤解されている気がする。追いつめられた者が逆転の手がかりをゲットして、敵(魔王とか)をこてんぱんにやっつけてスカッとすることだと。

 違うちがう。そういう「かたち」を取っても別にいいんだけど、その手前に「ああ、わかる。わかるよ」という登場人物への共感があって、その共感を「回路」として、観客の魂の奥底に潜む願望、悩み、絶望、なんでもいいけど感情のコアにあるようなもの、もっと言えば現実世界では解決困難なナニかを吐き出させることなんだ。

 そういう点が、この作品ではすごくうまく描かれているところだ。

 個人的に特筆すべきは、マッド・エンジニアの高須。

 登場の最初から怪しい目つきをして伊507潜に乗りこむあたりから、やむなく装置ローレライを起動するときのかけ声、そのときのゆらめくフィラメントの光、制圧行動に出たところ以後の迷いのない言動とか、最高。

 おそらく理系、理詰めの思考ルーチンを持っていて、戦時下敗戦間際というあの時代の空気のなかで生きていて、真っ当な出口を見つけようとしたときに、ああいった行動をとらざるを得ないというのは、技術というアイデンティティと、生き延びたい得をしたいという人間くささを、エンジニア的にどこかで帳尻を合わせつつ、ちょっとだけ無理をしているような感じなど、自分としてはすごくわかる気がした。

 浅倉大佐のカリスマがいくばくのものだったのか、高須にどれくらい通じていたのかまではわからない。そこに対する微妙な懐疑も含めて、技術屋としての打算でのみ込んだ上での行動だったのかもしれない。秘密兵器の全コントロールと理解は我が掌中にあり、この戦争はすぐ終わるかもしれないが、その終戦はやがて来たる長き戦争――冷戦の端緒なり、その情勢下において我に一日の利あり、みたいな。

 しかも、あの世界一のロジックで積み上げたドイツ科学のメカニズムが、技術的にも継承できるのは世界でほとんど自分だけかもしれない、なんてエンジニアとしての史上のうぬぼれなわけで。あ、こういうとこに共感しないのかな普通は。まあ、いいや。

 こうした点が顕著なのだが、登場人物ほとんどすべてが捨て駒じゃないところがすごく良い。それが究極のコンフリクトを起こす司令室制圧のあたりのピーンとした空気、それに呼応した浅倉大佐の本土における行動、そういったくだりが、だいぶ時間をおいていますぐ思い出す『ローレライ』の一番美味しいところだ。

 しかもそこに、絶妙な配分のユーモアなどを交えながら進める語り口がけっこう好きであって、DVD発売になったら何度か見返してみたいものである。

 もうひとつ良い点でキーワードになるのは「臨場感」である。

 美術セットの作り込み、特にパイプや計器類に関する重厚、重層感は満腹感がある。昭和三〇年代~四〇年代前半に少年期を過ごした人間としては、あれこそが「メカ」のフェティシズムなのだ。

 東京オリンピックぐらいまでは、まだ機械類がブラックボックス化しきっていないので、生活のいたるところにむき出しのメカがあった。都電や国電の操縦席、緊急停止用のコックレバー、社宅の機械室やガスメーター。そして、フィラメントがゆらめくランプ類など、男の子のあこがれ満載の空間と言える。引き戸が木製だったりするのも妙にリアリティを感じる部分だ。

 スカイウォーカーサウンドの音も、潜航しているときのミシミシと鋼鉄の板がきしみ、ワイヤーが伸張しているような潜水艦ならではの生活音が良かった。また、コックやレバーを回すときのギアの音、蒸気が噴出するような音が感情へと強く作用する。特に豊島園のブルブル椅子(本当の名前はウィンブル・シート)は、爆雷攻撃に効いた。

 ただ、「今さら言うな」と怒られてしまいそうだが、実はテニアン島近辺の決戦終盤からラストへの展開には、一度目の鑑賞時には「?」だったことは、言っておきたい。

 それは「伊507潜って、これだけのコトをやってのけてしまった。だから、こういう報いはあるよな」という、観客心理を持ってしまったということだ。

 つまり、米軍を本気にさせてしまったなら、ミッション完遂への報復……要するに伊507潜の被弾、大破、撃沈が当然ある、と予想していたということ。これは小説版の有無にかかわらず、そうだと思う。

 ところが、その受け皿がない。

 もちろん、ラストのもと米兵インタビューのくだりがああなっている以上、伊507潜の末路は充分にうかがい知れる。あそこでは「ぐえー、予告編の爺さんってここに出るんかよー」という驚きもあるにはあるわけだが。

 「号砲一発、B-29粉砕!」までは良いとして、その後の伊507潜への米巡洋艦からの一斉反撃が、なんだかいじめっ子が石ぶつけてる感じに見えてしまったので、余計に「あれ、これだけ?」という感じがしたのである。負のフィードバックは、何かしら欲しかった……というか、絶対あるだろうと思っていたので、「ちゃぷん!」という水しぶきとともに消える伊507潜の姿に「えー?」っと思ったわけだ。

 そうなると俄然気になってくることが、他にも浮かびあがってきてしまう。それはたとえば清永の死だ。

 彼は野球のボールに対する、あまりにも不注意な事故で無為に水死する。そうなると、「死なせぬ、死ぬな」と兵に言い聞かせていた絹見艦長は、あそこで本来は断腸の想いで「死んでもらう」という決断を下しているわけだ。

 こうした、何気ないことが最大のコンフリクトを引き起こすという、恐ろしい戦場の緊迫感。それ自体も瞬時に超えなければならないという決戦のリズム感は、その場としてはすごく良かった。

 ところが、これは天秤の重りのようなものだから、決戦全体のヤマを乗り越えた後には、そのカウンターバランスとしての、ツケとしてふたたび顔を出してしまう。絹見艦長と伊507潜への重い結果と引き替えにするバランスの水平化、回復を観客は求めてしまうということだ。せめて清永の死とは同じ重みぐらいの悲劇か、あの後にクルーと潜水艦に待ち受けていたであろう運命の「何か」の予兆ぐらいは欲しかった。

 絹見艦長が小説版に比較すると、終始「強いひと」と描かれていて、事件全体を通じての「変化」が見えてこないのが、「あれー?」感を強くするようでもある。

 もし、小生が何か看過してしまったのなら、申し訳ないことであるが……。

 ただ、さらに補足しておくと、二度目に観たときはこの点は、実はあまり気にならなかった。

 流れがわかって乗っていくと、「ああ、こうだよな」って感じがしてしまって、映画は難しいものだということも強く感じた。決戦後のパートも撮影まで行ったシークエンスがあるという話も聞いていて、総合的に考えると、今はこれでいいんだと思っている。

 ちなみに二回目の感想としては、一回目になんとなく疑問に思ったことの回答的なことが満載だったことも驚きだった。その最たるものがパウラの征人への共感だった。なぜ見落としたのかは不明だが、征人の流した血に触れたとき、兄を喪った者としての記憶が伝わり、そこで似た者同士という共感が生まれているのだ。

 フリッツの死と不在という、これは小説とは違うパラレルワールド的な点がうまくドラマに組みこまれていて、こういうところを真っ先に観なければいけないのになあと反省。

 結局、この作品に多角的に関わって、つらつらと思ったこととは、映像の「遺伝子」のことである。

 自分も四〇代後半を超えて五〇歳も近くなり、いったいこの世に何を残していけるのかということを、すごくよく考えるようになった。

 作品鑑賞というのは、本来は作り手と受け手の個対個の行為なわけだが、これを文化的な継承という観点からとらえると、これは遺伝子を残していきたいということと同根のことになってくる。

 アニメ映画『イノセンス』(押井守監督)の択捉へ向かったくだりで、生物が外につくりあげたものは実は生物そのものだという話があったと思う。珊瑚は虫が外に残した形質であっても、それは珊瑚虫そのものと言えるのと同じように、人間が自分の環境の一部として作りあげた建造物群や街もまた、広い意味での人間そのものだという考え方だ。

 この話は監督インタビューの機会が得られたときに、もっと深められた。つまり現代社会で携帯電話を使って常時コミュニケートを絶やさないようにしているのは、あれはもうすでに実現したサイボーグだという。つまり、身体の内部に埋める・埋めないは本質的な差ではないのだから、現代人はすべからくサイボーグ化済みということになる。

 そういう時代に、「映画」もまたデジタルの環境に強くさらされている。すでに生身の映画自体がなくなり始めている。鑑賞携帯にしても、今はまだPSPや携帯電話で映像を観ているひとは稀少だが、携帯メールの急進な普及を考えると、そんなパラダイムはいつシフトしてもおかしくない。

 制作も伝達も普及も鑑賞も、すべてがデジタル化によって量は増し、大量消費の波にさらされたとき、それに応じた質はどうなるのか。

 こうした大きな波の中で、「特撮」というのは永らく「特殊撮影」の略語であったが、すでに特殊に撮影しなくとも、イメージそのものを画素単位で加工できてしまう時代。映画もサイボーグになり始めているわけだ。

 映画がすべて光学的な技術のみで作られた時代にも、もちろんそうした「機械の身体」はあった。それはオプチカルプリンターやマットアート、あるいはモーションコントロールカメラといった機材で(他にもあるかもしれないが)、その主として機械的精度に関しての評価がイメージの評価とは別に存在するという、ねじれた現象があった。

 つまり「機械の身体」の機械的であるがゆえの部分をひけらかすというか。それが「特撮ファン」という、本来前面に見えてはいけない技術を論じるような存在さえ生み出したわけだ。

 でも、こうしたことは、もう終わりになりつつある。

 そういう時代に何が起きるか。それは、技術の上げ底を抜きにした、むき出しのイマジネーション、妄想のパワーと姿それ自体がダイレクトに伝わるかどうか、という現象だ。

 それは最初は快不快の原則から、気持ち良い映像とは何かというレベルで、消費されるかどうかが決まる。しかし、それが落ち着いたとき(あるいは麻痺して飽きられたとき)に、最後に残るのは「何が言いたいのか」ということ。

 要するに「志」が問われる。

 そして、「遺伝子」云々という話も、結局は何を伝えて何を残していくかという「志」がありきで、その具体的な手段としての遺伝形質というものがあるに過ぎない。そこにフォーカスを合わせ続けることだけが、生きながらえるということなのだろう。

 いよいよそういうデジタル時代ならではの機運と技術が、いろんな点でバランス良く「熟して」来た、それを統合する「志」の存在がはっきり見えてきたと思えるのが、二〇〇五年前半戦の印象である。

 映画『ローレライ』と小説『終戦のローレライ』に携わった人たちとその作品から明瞭に伝わってくるのは、まさにそうした「志」である。

 実を言えば、今まではこんなことは言葉で言わなくても、互いのそれこそOSレベルで組みこまれた本能のプログラムみたいなものだった。それが通用しなくなった時代が来ているのだとしても、この「志」を全方位的に可能な限りの技と情報をたたき込んで貫通力を研ぎ澄まそうとしている「人と作品」の存在。これほど勇気づけられるものはない。そして、それを受け止めたいと思っている観客たちの存在も実証された。

 『ローレライ』は、そんな時代性を背負った意味も含めて、これからの指針になることを体当たりで残してくれた気がする。

 興味ある向きはぜひいっしょに、その指針が何だったのか考えていただけるとありがたい。この熱い血の通った「志」の継承のために。

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<後記>

なんだか2005年はスゴイことになっています。映画もいいし、TVアニメも『かみちゅ』などノーマークなところから大変な作品が出たりして、もう大変。わりとネガティブなことを言う人もこの業界には少なくないのですが、負の言霊を信じてはいけません。本当になりたいのですか? 黄金期は今なのです。これからなのです。やる気のある人の「志」が、これだけ画面に出やすくなった時期って、過去にはないのではありませんか? あとは、商売を考えている人たちが、きちんとそれをお客さんへとつないで欲しいものです。

【2005年7月10日脱稿】初出:同人誌「特撮が来た!」(開田無法地帯)