二人三脚の相方だった岸井記者の早すぎた死

 友人で毎日新聞に同期入社した岸井成格(しげただ)氏が5月15日に亡くなってしまった。肺腺がんだった。一時は回復していたが、今年に入り再び体調を崩し遂に還らぬ人となってしまった。まだ73歳。政治記者としてこれからさらに円熟味を出してゆく個性派記者だった。

 私と岸井は1967年に毎日新聞に一緒に入社した同期でワシントン特派員も一緒に過ごした。入社試験のあった1966年は"40年不況"の直後で、入社人数は例年の3分の1程度と少なかった。入社するとまず地方支局へ行き、その地方の社会、政治などを担当し4年ほど修業してから本社へ行く慣わしだった。地方で一通りのことを学び、その間に地方版紙面を作るのだ。私は東北の秋田でみっちり先輩記者三人にしごかれ、岸井は九州の熊本で初任地を迎えていた。

 東京本社では岸井が政治部、私は経済部へ配属された。政治は自民党の天下で自民・社会の55年体制の真っ只中にあった。一方、経済は日本が高度成長への足がかりをつかみ、二度の石油ショックにもめげずGNP大国へと突き進んでいる最中だった。

 政治は三(木)、角(栄)、大(平)、福(田)、中(曽根)が覇を競い、とりわけ田中角栄の列島改造、高度成長路線と福田赳夫の安定成長路線が雌雄を決し合っていた。また、経済では日本企業が世界に輸出攻勢をかけ日米が経済摩擦で火花を散らしあう時代だった。まさに政治と経済が一体化し熱気にあふれていた。私も岸井も30~40歳台で血気盛んな中堅記者だったように思う。

 特に政治と経済が密接な関係にあり、日米問題も絡むことが多かっただけに、二人で情報交換を密接に行ない連日のように連絡を取り合っていたものだ。なかでも面白かったのが政治と経済の人の動きを追いながら世の中の動きを予測したり、時には「こうあるべきだ」などといった解説記事やキャンペーンを張ったりしたことだった。

 岸井はそのまま政治部一筋で政治部長、編集局次長などになり管理職の道を歩むが、私は管理職より現場にいた方が肌に合っていると思い、管理職の道を断り45歳のときに毎日を退社。フリージャーナリストの道を選んだ。ただ二人の関係はその後も変わらず、情報交換や共通の勉強会、会合をいくつも持って今日まで至ってきた。

 岸井は喋りが上手かったので途中から主戦場をテレビに移し記者時代以上に社会に影響力を及ぼしたように思う。ただ残念だったのは喋る時間が短かったことだ。これから一層のベテラン記者として単なる解説ではなく日本政治秘史などから見た、日本論をもっと語ってもらいたかった。

【財界 2018年6月26日号 第473回】

昨日、開催された岸井様のお別れの会には政界、メディアなど多くの方が参列されました。毎日新聞の号外も配布され、嶌も寄稿しております。毎日新聞サイトに当日の様子を撮影した動画などが掲載されておりましたので、参考までリンクを掲載いたします。

https://mainichi.jp/articles/20180619/k00/00m/040/027000c

画像は、岸井様のお別れの会にてパネルとして展示いただいた一部をご紹介しました。

・トップは81年秋に駐在先のワシントンで撮影したもの。左から支局のアシスタントのメアリー・トビン様、中島様、岸井様、嶌。

・次の画像は、82年のワシントンでの納会の様子。



◆お知らせ

・16日に開催された日本ウズベキスタン協会の総会とガイラト・ファジロフ駐日ウズベキスタン共和国大使やウズベク語講座の講師を務めるフェルザホン様とのトークショーなどの報告を掲載しました。ご興味をお持ちの方は以下を参照ください。

 http://nobuhiko-shima.hatenablog.com/entry/20180619

・日曜(17日) TBSラジオ『嶌信彦 人生百景「志の人たち」』音源期間限定掲載

 大ヒット曲「石狩挽歌」や「終着駅」などで知られる作曲家の浜圭介さんを迎え、50年あまりの作曲家人生について伺う。

 今回、1曲作るのに、5、6曲作った中から1曲を選んできたことからこれまで作った曲は3000曲弱。「石狩挽歌」からの転換、日本歌謡界の歴史など貴重なお話が続きました。

次週も引き続き浜様をお迎えし、森昌子様をイメージチェンジするための曲を作った時のエピソードや、大ヒット曲「そして神戸」「街の灯り」「雨の慕情」などの誕生秘話。浜様がこだわる作曲作法や、歌謡界のこれからについてお伺いする予定です。どうぞご期待ください。

 http://nobuhiko-shima.hatenablog.com/entry/20180618