もともとは東京・代々木の住宅地に「すず」という名前でひっそり店を構えていた。
坂の途中、引き戸はピタリと閉ざされて、一見では絶対に入れない。
戸を開けたとしても、カウンターの中で眼光鋭い親方と目があったら最後、肝が据わってない男は「失礼しました」と後ずさりするのがオチだ。
そんな「すず」に三日と開けずに通うようになった。「すず」を愛しすぎて、歩いて5分の場所に引っ越してきてしまった。ああ、それなのに、親方は店を締め、遠く三島へと行ってしまった。嫌われた? いやいや家庭の事情だそうだが、真偽はわからない。
親方は店名を苗字である「田なか」に変え、三島市内で包丁を握っている。
そして私は今でもときどき、新幹線に乗って三島へ向かう。
「田なか」は代々木のカウンターだけの店とは違い、小さい座敷もある。少しこじゃれている。しかし、親方の強面(こわもて)度は代々木時代と変わっていない。
魚の仕入先は築地から沼津へと変わった。沼津の河岸には駿河湾の珍しい深海魚なども揚がっており、料理のハバが増えたという。
「また代々木に戻ってくださいよ」と行くたびにお願いするのだけれど、いまだに願いはかなわない。