【謝罪プロは見た】「知床事故社長の謝罪パフォーマンスと危機管理の違い」

悲惨な知床観光船事故を起こした会社の社長がやっとマスコミ前で謝罪会見を行いました。いきなり土下座から始まる社長会見。しかしこの映像を見て納得した人はいるでしょうか?土下座など、謝罪においては全く意味のないパフォーマンスであることを証明しただけといえます。なぜでしょう?

・事故発生時からダメダメ感がプンプン

悲惨な知床事故についてニュースで知りましたが、その報道で違和感を感じたのは、「観光船運営会社の社長」という表現でした。え?匿名?)なんで?とすぐさま疑問が浮かびます。

普通こうした大事故大事件であれば、すぐさま責任者である会社名と社長名は報道されるはず。それがないということは、社長は逃げ隠れているのではと感じました。実際に運営会社「知床遊覧船」の桂田社長がマスコミ会見を開くまでのいたずらな時間浪費含め、もう対応ができていないことは事前から明らかだったと思います。

私は朝日新聞などから取材を受け、この事態収拾と社長の謝罪についてコメントしましたが、限り無く対応など取れなそうな、ずさんな運営とその事故対応、事後処理などすべて話にならなそう匂いがプンプンしていたという部分はカットでした。

・土下座から始まった社長会見

そして予定より1時間以上遅れて始まった会見。いきなりの土下座。

絵に描いたようなダッサダサのダメ会見オープニングでした。中身も想像通り、時折涙声になる社長の説明は、一分も違わずスカスカでした。取材陣からの猛批判も至極当然であり、謝罪会見を開いた結果、誰も何も得るものがない会見でした。

また桂田氏の赤いネクタイ、「捜索中」と捜査中と読み間違えるような、用意したカンペの読み間違い、マスコミ、乗船客、船長などすべて他人の責任にするかのような発言。説明の食い違いや誠意の感じられない受け答えなど、何一つ評価できる謝罪ではありません。

このダメ会見が、ビジュアルどうこうで謝罪が何とかなることはないということを証明してくれたといえるでしょう。

・土下座というパフォーマンスの価値

もはやこの社長に事態収拾などとうてい期待はできないでしょう。国交大臣は社長を批判している暇があるなら、さっさと国交省や警察に処置を任せるなりして、社長は刑事民事の責任をとってもらう以外、事態収拾に役立つとは思えません。

私は土下座も丸刈り(頭を丸める)も涙も、一切謝罪においては意味がないと主張しています。(「謝罪の作法」p.141ビジネス土下座)

朝日新聞の記事でも答えたように、本来公共交通機関のようなインフラ業には社会的責任が伴います。観光船が社会インフラかどうかはさておき、こうして一度事故が起これば一気に何十人もの人命が失われてしまう責任ある立場という自覚が、とうていあったとは思えない人物が責任者だったのです。

謝罪は危機管理であって、パフォーマンスではありません。事態収拾という本来の危機管理フレームワークを組み立てられない人が、しくじりを謝罪で何とかしようというのは、いかにトンチンカンで非現実的なことか、強烈な教訓を与えてくれたと思います。