『エヴァンゲリオン』10周年論

※2006年に書かれた原稿です(『新劇場版』は2007年の作品)。

題名:『エヴァ』以後の十年、以前の十年 そのふたつから浮かぶ正体

 『新世紀エヴァンゲリオン』って1995年の作品だけど、確かにいま見てもずばぬけてよくできていて、なかなかこれを超えることも難しいと思わせる押し出しを感じる。だけど、なぜここまでのレベルにできたのか、顧みられたことは少ないかもしれないね。

 というんで、ここではそういう作品内容以外の観点を中心に、『エヴァ』っていったい何者だったのか、歴史上のポジションを探ってみたいと思う。

 ここ数年、深夜によくアニメ番組を放送してるでしょ。あれって、「テレビでやってるからテレビアニメ」って、これまでの習慣を引きずって分類する人が多いんだけれど、本当はちょっと違う。テレビ局が主体的になって「番組」として作ってきた、特に十年以上前のいろんなテレビアニメと比べると、いわゆるビジネス・スキーム「誰が主体で何を売って商売にするか」が違うから、同列に並べられないんだよ。深夜アニメって100%DVDになってると思うけど、あれって最初から「コンテンツをつくって管理する」母体があって、その最初のお披露目が「テレビというショーケース」だという意味なんだ。

 この母体って、だいたいはビデオメーカーが幹事をつとめる「製作委員会」で、そこにテレビ局も乗っかることがある。局にしてみればいわゆる「砂の嵐」と呼ばれる余剰の深夜時間帯を使って、30分丸ごとコマーシャルとして流しているという感じに近い。

 この十年間で、テレビアニメ作品の作られ方、市場への露出の仕方が、そういう「製作委員会主導」に変わってるんだ。それはもちろん『エヴァ』のせいだけではなくて、知的財産権の確保強化という時代性の推移のせいだけど、『エヴァ』の商業的成功が、そっちに流れを大きく変えたことは、確実と言えるだろうね。

 『エヴァンゲリオン』のジャンルはロボットアニメ。でも、他とはずいぶん違って感じられたんだ。ロボットアニメって、主役メカの玩具やプラモデルが商材の中心で、作品自体もそのコマーシャル的色彩が強かった。もともとロボットアニメって「30分まるごとコマーシャル」とか言われてたんだよ。エヴァも主役ロボットは玩具やプラモデルになったって? でも違う。それは「主従の関係」が違うわけ。あくまで『エヴァンゲリオン』という作品は、作品自体が主な商材で、ロボットの関連商品は従にあたる。『エヴァ』も製作委員会がクレジットされてるけど、実態はキングレコード一社で、これは大月俊倫プロデューサーが述べているとおり。当時のキングはレーザーディスクとレンタルビデオ、主題歌とBGMのCDを主に売ることが目的だっただから、「作品自体がメイン商材」。

 こんな風に作品と商品の「主従の逆転」をやって、もっとも成功したのが『エヴァ』だったというわけだ。

 「作品自体が商品」って当たり前? でも、永らく当たり前ではなかったし、今でも「アニメはキャラクター商品のひとつ」と主従の従に置かれていることも多いよ。

 ここで話は『エヴァ』登場から十年ぐらい前に戻る。1985年というと、これは実に微妙な節目の時期なんだなあ。そこにはランドマークもある。最近、三部作の映画となって公開された『機動戦士Zガンダム』のテレビシリーズだ。

 これがなぜ節目なのか。さらに十年近く時間を戻す。1977年、『宇宙戦艦ヤマト』劇場公開版(テレビ版は1974年)のヒットが起爆剤となって、「アニメブーム」が発生する。アニメには児童以外にミドルからハイティーンにも観客層があり、年齢相応の作品を欲していることが発見された。これが、「原作つき」という従属的立場から「アニメ用オリジナル」という主体的立場へとアニメをの地位を変容させるチャンスになったんだ。

 機会を自覚的にとらえて最大限に利用し、「作家性」を打ち出して成功をおさめた作品ってのが、『機動戦士ガンダム』(1979年にテレビ放映、劇場版は1981年)。しかし、まだまだビデオデッキの本格普及前、作品の多くは玩具メーカー等のスポンサーが必要だった。だから、アニメは「作品」と認知されつつ、「商品」としてビジネスも両立させねばならない時期があったんだよ。

 それでもその関係が新規作品を生み出しているうちは良かった。幸福な蜜月関係は終焉を迎えてしまう。「Zガンダム」はそのマークになっているんだ。もしオリジナリティ&クリエイションの発信源が順調に回転し、新規性のある作品が永続的に産み出される状況が続いたら、「続編」なんて必要ないでしょ。

 だからこの蜜月は『ガンダム』と、ひいき目に見て『マクロス』ぐらいしか残せなかったと言える。1984年には映画『風の谷のナウシカ』で宮崎駿監督が初のヒット作を出すけど、これも滑りこみに見えるよね。

 なぜそのような斜陽化が起きたのか? ひとつは「テレビアニメ第一世代」が、学校を卒業して社会人となったこと。もう一つは、任天堂ファミコンの普及でテレビゲームというアニメの強力なライバルが出現したからだ。

 『ドラゴンクエスト』登場に及び、映画やテレビドラマに匹敵する、いや超えるかもしれない「物語」の可能性がゲームには見えた。1986年末にはアニメ雑誌が三誌もたて続けに休刊するありさまだ。これもまた『Zガンダム』とほぼ同時期のできごと。

 ガイナックスは、このようなアニメ黄昏時期の1987年春、映画『王立宇宙軍』で旗揚げする。後に『エヴァ』につながる「始まり」もまた、この時期だ。時代の節目って、こういう現れ方をする。すごく重要。

 『王立』とはいかなる映画か? 1983年末、バンダイは非アダルトもので初のオリジナルビデオアニメーション(以下OVA)『ダロス』を発売した。この展開は、アニメ業界に新たな作品発表の場を提供する。バンダイ資本の『王立宇宙軍』とは、おそらく「OVAのフラグシップ」という使命を背負っていたはず。テレビアニメが低調に向いつつあるなら、作品そのものを商売にしていけば良いという、「作品が主商品」の発想の原点も、この周辺にある。

 だが、これは時期尚早でもあった。OVAには練られていない安易な作品、自己中心的で意味不明な作品も少なからずあったし、困ったことに、それが「作家性・作品性優先」のダークサイドだということは、お客さんにもすぐわかってしまったんだ。同じ数千円を投資するなら数十時間遊べるゲームの方がいいって、それは人情というもの。

 OVAの失敗は「テレビアニメ以上、劇場映画未満」という品質・物量の設定レベルを高く置きすぎて、ハイリスク・ハイリターンになったことにもあったんじゃないかな。消費者の潜在的欲望って「すごくよくできたものを、いくらでもいいから所有したい」ではなく、「こんなものと理解可能なものを、なるべく安く消費したい」ということだからね。

 こうした反省に基づいて、OVAのデファクト・スタンダードは1988年の『機動警察パトレイバー』で決まる。整理すれば、全6話のパッケージング、テレビ・プラスアルファ程度のクオリティ、作家性を抑えて娯楽性と予算遵守に徹するという感じかな。

 庵野秀明の監督デビュー作『トップをねらえ!』も大枠はそこだけど、これはスタッフが身を削るようにしてクオリティを超高水準に持ち上げている。そういう意味では、OVAに本来実現すべきだった「作家性と商品性の両立」がここで初めて実現されてる。その同じ人間が(紙数が足りないので略すけど)『ふしぎの海のナディア』という長尺のTVシリーズでの成功と失敗を踏まえ、今度は「テレビアニメの(本来的な)OVA化」という勝負に出たのが『新世紀エヴァンゲリオン』だったと考えると、いろいろと腑に落ちることが多く見つかるはずだ。

 たとえばテレビ放映に先がけてタイミングを合わせて雑誌でコミック版を連載するというメディアミックスは、『パトレイバー』を参考にしたのだろう。後半を「謎また謎」の展開にしたのも、ゲームに対する苦い敗北を経て、RPGのように観客が想像して参加できる隙間を多く残した結果かもしれない。

 数々の失敗に学びつつ、敵の技をも取りいれて駆使して、「テレビで流れているけど本質はOVA」という最強の武装を得たのが『エヴァ』だったと見ると、それはその後十年を左右するぐらい影響力が持てたのも当然ってことになるよね。なんせそれまでの歴史や時代性の総決算ということだから、そりゃパワーあるよ。逆に、他にそこまで集中度をあげて高めなければ、すぐ凡作に墜ちてしまうってことでもあるから、厳しいよね……。

 前々からガイナックス系の才能の本質って、「良いとこどり」というか、総合力・結集力のようなものにあると思ってる。「パロディ」「オマージュ」も、その現れのごく一面に過ぎないんだろうな。そんな考え方って作品の内容だけでなく、「作品をどう提示していくか」というフィールドへの対応や、見せ方にも現れるってことなのかもしれない。

 やっぱりこんな方面での「エヴァ研究」ってもっと必要だと思うな。なかなか『エヴァ』をしのぐような作品って出にくいけど、ガイナックス流に言えば、「エヴァを倒せるのはエヴァだけです」って言い方もあるわけだからね。

 じゃ、この辺で。機会があったらまたね。

【2006年3月21日脱稿】初出:雑誌『CONTINUE』(太田出版)