今でこそ、国内では誰もがガリガリ君ですが、実は倒産の危機から生まれました。
『ガリガリ君』が誕生したのは1981年、商品開発はその2年前の1979年に始まりました。そもそも赤城乳業には、1964年に前会長が命がけで作って製造販売を始めた『赤城しぐれ』という看板商品がありました。今ももちろんありますが、当時、カップかき氷アイスの草分け的存在で、赤城乳業の主力商品となっていました。
ところが、70年代に2度のオイルショックがあり、原油が10倍以上値上がり。コストが高騰したり、消費が冷え込んだため、売上が低迷。ほかのアイスメーカーが、カップかき氷に参入してきたこともあり、『赤城しぐれ』はだんだん厳しい戦いを強いられるようになりました。
また、物価の高騰を乗り切るため、アイス業界内で「30円だったアイスを50円にする」という話がささやかれていました。赤城乳業も30円だった『赤城しぐれ』を50円にする決断をし、値上げをしました。ところが、ふたを開けてみると、ほかの会社は値段を上げませんでした。赤城乳業だけアイスが高くなってしまったので、子どもたちはもう買ってくれません。一度値上げしたものを元に戻すわけにもいきません。
商品がまったく動かなくなり、業績はさらに悪化しました。
作っても売れない。当時、工場にあった8つの製造ラインはほぼ停止状態となりました。工場で働いていた人たちは、朝、機械の洗浄だけを済ませると、やることがなくなり、工場周りの草むしりをしていました。
「このままじゃ、赤城乳業は倒産する。ヤバイ」
経営陣も、私も、ほかの社員も、みんながそう思っていました。
今思い出してもぞっとします。大ピンチでした。
ただ、この時、みんなの気持ちがひとつにまとまっていくのを感じました。
ピンチという状況を隠そうとする会社もありますが、追い込まれた状況では、そのことをオープンにすることで、社員をひとつにまとめる力があるのかもしれません。社員それぞれが自然と「自分のできることをしよう」とやるべきことを探していたように思います。
私がリーダーを務めていた商品開発部には、「『赤城しぐれ』に匹敵するような、会社の柱となる商品を作れ」とお達しがきました。
商品開発部では、あの手この手を考え、次々と商品を企画して新しいアイスを出しました。当時、大人気だった『ルパン三世』などのアニメーションや、漫画家の池田理代子先生の漫画をパッケージに採用したりもしました。アニメのキャラクターは非常に人気があって、瞬間的にバカ売れしました。ですが、長続きはしません。
「虎の威を借る狐」のようなもので、所詮、人気のある先生方のキャラクターに頼って、パッケージを変えただけの、借り物の企画だったからです。自分たちが悩んで悩んで頭を使って絞り出したアイデアは、そこには何もありませんでした。
人のふんどしで相撲をとってもうまくはいかない、と思い知らされました。
やはり赤城乳業ならではの、どこにもない、オリジナル商品を開発しなければなりませんでした。起死回生をかけた商品開発であるならば、なおさらです。