「残業するな、長時間労働は禁止だと言うが、ちょっと待ってくれ!」

昨今、時短だ、残業時間規制だと、やけに喧しい。長時間労働やハードワーキングは邪悪の所業とされ、世を挙げて撲滅キャンペーンが展開されつつある。

こうした規制とキャンペーンに対して、「ちょっと待ってくれ」というのが、本稿のテーマである。

このキャンペーンは、大手広告代理店の新人女性社員がほとんど休みを取れないまま、月間100時間以上の残業を強いられ、相談相手もいない状況の中で消耗し、自殺に至った事件の報道をきっかけに盛り上がってきたように感じている。過労死とも絶望死とも考えられる彼女の死については、心からの深い同情を禁じ得ない。もちろん、第二、第三の彼女のような過労死、絶望死を出さないようにする手当てを講じる必要はある。

しかしそれでも、最近世の中で喧伝されている「残業は無能の証」「長時間労働は悪」「ハードワーキングはダサイ、みっともない」というキャンペーンに対しては、「おいおい、ちょっと待ってくれ」と言わざるを得ない。

理由は幾つかある。

まず第一に、今の日本人がそんなに働き過ぎなのかという一番基本的な事実関係を見てみると、それほどでもないということが分かるだろう。ビジネスモデルや会計ルールやインターネットプロトコルや、人々のライフスタイルまで、世界のデファクトスタンダードとなっているアメリカの年間労働時間が1788時間、対して日本は1735時間。むしろ日本の方が少ない。

いやいや、ヨーロッパの国々と比べると日本は明らかに働き過ぎでしょうと声が挙がるかもしれない。

実際、ドイツは年間1388時間、フランスは1489時間と、これら2ヶ国と日本を比べると250時間~350時間も少ない。しかし、これらの国々と日本とを単純比較すべきではない理由がある。

これらのヨーロッパの国々は日本と比べると、圧倒的に労働生産性が高い。従って長時間働かなくとも高いGDPを生み出すことができるので、長時間労働をする必要がないのである。ちなみに、ドイツの一人当りGDPは41000ドル、フランスが38000ドルで、日本は32000ドルである。日本はこれらの国に対して約17~25%も長く働いているのに、約2割少ないGDPしか生み出せていない。

こうした労働生産性の格差は、労働者一人一人の技術や就労態度の差に因る部分もあるが、その大半は産業構造や経済政策や社会構造に基づくものである。労働者個人個人の自助努力だけで何とかなるものではない。

労働生産性を上げるために有効な個人がすべき努力を強いて挙げるとするならば、教育であろう。

教育に関しては、日本は二つの問題を抱えている。一つは高等教育(大学・大学院)における日本の学生が、世界の学生と比べて圧倒的に勉強しないことである。

近年、東大や京大の世界における大学ランキングの順位が低下傾向にあることが報道されているが(東大が39位、京大は91位)、日本の大学生の勉強しなさ加減はそんな甘いものではない。PISAのような公的な調査が無いため断片的な調査から評価するしかないが、日本の大学生は欧米の大学生の半分どころか、三分の一も勉強していない。

例えば日本の大学生が学校の授業以外にやる勉強時間は1日平均1.5時間であるのに対して、アメリカの大学生は7.5時間。日本の大学生が4年間で読む勉強の本が100冊であるのに対して、アメリカの大学生は400冊。アイビーリーグと呼ばれるアメリカの一流大学群の大学生は何と1000冊読む。

ヨーロッパの大学生に関するデータは見つけられなかったが、ドイツの大学とフランスの大学に留学していた学生に聞いたところ、ドイツ、フランスともアメリカとほぼ同様のようである。

とにかく日本以外の大学生は、必死でずうっと勉強しているのだ。アメリカに留学していた学生から聞いた話だが、「アメリカの大学生は、日曜日の午前中に教会に行って、日曜日の午後に2~3時間だけ友人と遅いランチを楽しんだり、ホームパーティーでおしゃべりしたりするが、それ以外はずうっと勉強していた」「大学の図書館に泊まり込んで、あまり自分の部屋に戻らない猛者も珍しくなかった」という話がそうした実態を物語っていよう。

アメリカやヨーロッパに留学した日本人学生は全員が彼の地の大学生があまりにも猛烈に勉強していることにショックを受けて帰って来る。そして欧米で受けたショックと経験を自分の人生の糧として、帰国してからも彼の地でのペースで頑張り続けられれば良いのだが、再び日本の大学のぬるま湯に浸ってしまうと、彼らの多くは日本の大学生のペースの生活に戻ってしまうのは残念なところである。

先ほど日本の労働生産性は、独・仏といったヨーロッパの約75%程度しかないと示したが、大学生の勉強量は半分とか三分の一にも満たないのであるから、こうした生産性格差もむべなるかなではある。

しかし、日本の生産性の低さの要因で個人に責任があると考えられるのは、この一点だけである。あとは全て政治・政策の責任である。

教育に関して問題が二点あると言ったが、日本の大学生が一生懸命に勉強しないこと以外の、もう一つの問題は政治・政策に責任がある問題である。

それは日本の政治が教育を重視していないことだ。正確に言うならば「教育は大切である」と口では言うものの、教育にはまるで投資しない。

国民教育に対する国費の投入金額の比率は、OECDの平均が12.9%であるのに対して、日本は9.1%。OECD31ヶ国中日本は30位。特に軽視されているのが高等教育(大学・大学院)で、OECD平均がGDP比で1.4%であるのに対して日本は0.8%。順位は31位(最下位)である。

その国の経済競争力に直結する高等教育に対する国家の取り組み姿勢がこの体たらくでは、日本の生産性が低いのも当然である。

教育以外にも日本の生産性向上を阻害している政治・政策要因がある。

規制緩和が進まないことである。

農業分野がシンボリックにしばしば取り上げられるが、医療・介護、金融、公共事業、教育等々、日本企業が国際的に競争力を誇っている分野以外は、日本の産業はまだまだ規制が多い。

アベノミクスが三本の矢というキャッチフレーズを打ち出したが、そのうち第三の矢として提示されていた“成長戦略”とは、具体的には規制緩和による新産業の創出と生産性向上による産業競争力の強化である。そして第三の矢である成長戦略が全くの空手形で終わってしまったのは、新産業を生み出したり、産業の生産性を向上させたりするために必要な規制緩和を行えなかったからである。

規制緩和を行おうとすると、その規制によって既得権を得て過剰利潤を得ている業者の利権が浸蝕されることになる。そうすると、その業界・業者からの反発が生じ、政権の人気が落ちたり、次の選挙で敗北してしまうリスクが出てきたりする。そのため、これほど高い人気と支持率を誇っている現政権も、規制緩和には、ほとんど手をつけることができなかったのであろう。いや、より正確に読むならば、規制緩和に踏み込まなかったからこそ、高い人気と支持率を維持し続けていられるのであろう。

いずれにせよ、効率的な経済構造を確立するため規制緩和を推進しなければ、国民経済の生産性は向上しない。こうして見てみると、日本経済の生産性が低いのは一義的には既得権業者の壁をうち破れない政治・政策が原因ではあるが、そうした政権に高い人気と支持率を与えている国民の意識こそが真因だとも考えられる。

国民経済の生産性を向上させるための決定的要因である教育への投資と規制緩和による効率的な経済構造の構築を阻んでいるのは、実は国民意識とその国民の政策選択ということになる。

ここで規制緩和を推進するための、重要な付帯条件について触れておこう。

それは国民の生活の保障である。

規制緩和を推進すればその産業分野の合理化・効率化が進む代わりに、失業者が出たり所得が下がったりという副作用がでる。規制緩和に対して必ず抵抗が発生する理由もここにある。

もし自分が働いている分野で規制緩和が行われても、自分の生活が破綻する心配さえなければ、つまり衣食住が維持できて、子供を学校に行かせることができ、重い病気になった時に病院に入院するための心配がなかったとすれば、何が何でも規制緩和に反対とはならないはずである。

日本よりも年間250~350時間も少ない時間の労働で、日本よりも18~28%多くのGDPを生み出しているヨーロッパの国々は、国費を積極的に教育に投資しているだけでなく、こうした国民の生活を保障したり、転職支援を手厚く行ってることに留意しなければならない。生活保護、失業給付、子ども手当て、年金といった社会保障が手厚いため、衣食住や医療、教育といった生きていくために必要な諸々が公共財として整っているのである。

こうした生きていくために必要な諸々が整えられていない環境で強引に規制緩和を進めれば、弱者の生活は破綻し社会は悲惨なことになるであろう。だからこそ、生きていくために必要な諸々が整っていない社会では、国民は規制緩和にノーと言うし、それは当然のことでもあるのである。

そして、今の日本がそうである。

もちろん人が衣食住や医療、教育の心配なく生きていくための公共財を全ての国民に保障しようとすれば、相応のコストがかかる。そのコストがヨーロッパの国々と日本との国民負担率(国民所得のうち税金と社会保険料として徴収されている比率)の差として表れている。

日本の国民負担率41.6%であるのに対して、ドイツ52.6%、フランス67.6%である。独仏の方が10%~25%も高い。しかし、今よりも3割~6割多くの税金と社会保険料を支払う代わりに、衣食住、医療、教育の心配なく生活を送れるのであれば、検討してみる価値はあると考える日本国民も少なくないのではないか。また更に、そうした政策によって国民経済の生産性が向上し、今よりも年間250時間(休日にして10日分)少ない労働で、一人当りGDPや一人当り所得が2割も向上する可能性があるのであれば、賛同者はもっと増えるはずである。

いずれにせよ、日本の長時間労働も、規制緩和が進まないのも、そして経済成長が止まってしまっているのも、深因は国民が生活に不安を感じているからだと考えられる。このような状況で、残業や長時間労働を禁止する政策を強引に導入しても、弥縫策にすらならない。

これが現在声高に喧伝されている残業・長時間労働に対する禁止キャンペーンに対して「おいおい、ちょっと待ってくれ」と言いたい第一の理由である。

第二の理由は、労働人口とGDPの技術係数の話である。

この話は次回に。