僻目的日常

本棚の整理をしていたら『独善的日常』というタイトルの地味な本が出て来た。

20年ほど前の釣行記をまとめた一冊である。

その一冊には“浮ついた世相に嫌気がさし、俗を断って釣りの世界に逃げ込む……”とある。世間からはほとんど相手にされず、眇目僻目に凝り固まってあれやこれやを拗せながら、 独善・独尊・独歩の日常を送っていたようである。

感想は二つ。

一つは、世の中変わったなぁというもの。

そう言えば、二昔前はバブルの余韻も残っていたし、インターネットだITだというのも蠢き始めていて、あっちもこっちもまだ浮かれていた。

比べて今は、もし冒頭の一文を綴るとしたら“閉塞した世相に困憊し、癒しを求めて俗から逃げ出す……”となるだろう。

隔世の感とはまさにこのことである。

もう一つの感想は、人間とは変わらないものだなぁである。

独善・独歩は相変わらず。20年の間にあまりに小突き回され、削り取られて、独尊だけは多少薄らいだ気もする。今は独善・独歩・天邪鬼というところか。

その結果、眇目僻目はますます進み、今は真っすぐなものも斜めにしか見えない。理路の通った言説も裏の思惑や歪んだ動機が副音声で聞こえて来るようになった。

とは言え人間、性根はそう変われるものではないというのはよく分かる。人としての元型はそのままに、ますます頑迷固陋に、さらに拗せて孤立しただけである。

これほど斜に構えて生きていれば、偏向した独り言がどこかに届くのか、奇特な方から声をかけられることもある。

「そんなに不平・不満・不信・不服を言うのなら、ひとつmineに書いてみてはどうか。mineは見識あるメディアであるからして、CSRを心がけている。拗せ老人の毒抜きの場を提供することによって世の中が少しなりとも清涼になるのであれば、それもmineの使命である」とのことらしい。

一人でブツクサ不平不満不信不服を言う者に限って、場を与えるからちゃんと語ってみよと言われると、まともなことは何も言えないのが常である。今や独尊の念すら摩耗してしまった単なる天邪鬼に気の利いたことが書けるわけもない。

それでも眇目僻目は性根に発する自らそのもの。生きているだけで、あれやこれやと妄想・僻見が湧いてくる。

見識・教養を備えた方々には全く無価値な事柄を、ポツリポツリと呟いていくつもりである。