女王様のご生還 VOL.211 中村うさぎ

時々、いやかなり頻繁に、自分から逃げ出したくなる。

「こうありたい」と望む人物像からあまりにも遠く、「こうはなりたくない」人物像にどんどん近づいていくからだ。

何故、私はこんなに心が狭いのだろう?

どうして人を許せないのだろう?

自分に甘く他者に厳しい人間を嫌うのは、何より自分自身がそういう人間であるからだ。

私は他人が許せない。

そして、そんな自分も許せない。



この二週間ほど、ある人間を許そう受け容れようと懸命に努力してきたが、どうしても無理だった。

相手の立場になり、その気持ちをあれこれと推測してみたものの、悪い方向にばかり考えてしまって怒りが収まるどころか倍増する始末だ。

この「何でも悪い方向に考える」という習性は夫からしばしば指摘されるのだが、良い方向に考えて人を信用した結果裏切られ、ますます傷ついた経験が多々あるので、「傷つく覚悟で相手を信じる」というのがなかなかできない。

傷ついてもいいから信じたいと願うには、盲目的な愛が必要だ。

相手に惚れているならともかく、そこまで深い愛情や執着を持てない他人に全面的な信頼と寛容を示すのは至難の業である。



だが、人を憎む感情はひたすらどす黒く耐え難い。

憎めば憎むほど、その矢は自分に跳ね返り、己の心の狭さと醜悪な感情への嫌悪となって突き刺さる。

誰かを憎むと、それと同じくらい自分を憎む羽目になるのだ。

そして、相手に対する憎悪と自分に対する嫌悪で心がぱんぱんに膨れ上がり、他の事を何も考えられなくなる。

この二週間は、本当にそんな状態だった。

怒りや憎しみを糧にする人もいるのだろうが、それは復讐を考えるからだ。

脳内であれこれと復讐を画策して溜飲を下げるという手は確かに有効だ。

しかし「復讐する自分」の悪意のどす黒さにも耐えられないので、どのみち自己嫌悪からは逃れられない。

結果、どこにも逃げられずカタルシスもない苦しみの日々を送る羽目になってしまった。



こうなるともう、相手のせいと言うよりは、ほとんど自分の性格のせいだ。

他人を憎む事に罪悪感と自責の念を植え付けたキリスト教が憎い(←逆恨みw)。

正々堂々と心の底から人を憎めたらどんなによかったか。

ネットとかで匿名で他人を攻撃する人って、こういった罪悪感や自責の念とは無縁で純粋に相手を憎み自分の正しさを疑わず、思いっきりカタルシスを感じてるんだろうな。

そんな人間になりたくないから羨ましくはないんだけど、厄介な倫理観に縛られてない人の自由さに憧れる自分もいる。

己の不寛容や独善性を顧みることなく晴れ晴れと他人を憎めるなんて、どんなに気持ちのいい人生だろうか。

他者を罰する快感に何の屈託もなく酔えるとは、どんだけシンプルな脳内構造だ。

その人たちの住んでいる場所はきっとエデンの園に違いない。

「善悪を知る木の実」とは、他人を裁く善悪ではなく己を裁く善悪の概念だったのだ。

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