女王様のご生還 VOL.210 中村うさぎ

ある時期まで、私はオナニーを恥ずかしい行為だと思っていた。

今でこそ「オナニーなんて普通じゃん。べつに誰にも迷惑かけてないし、何が悪いの?」と思っているが、若い頃はオナニーなんかする女は自分以外にいないんじゃないかと不安に慄いていたのである。

いやぁ、本当に「無知」というのは不要な罪悪感や恥を生むものだよなぁ。

あんなにビクビクして自己嫌悪に陥って損したよ。

みんな本当はやってんじゃん(笑)!



小学校に行くか行かないかくらいの頃だろうか、幼い私はおしっこの出る部分をパンツの上から触るとちょっと気持ちいいという世紀の大発見をした。

当時はそれが恥ずかしいとか悪い事とか思ってなかったので、布団の中でごそごそ触ってたら、一緒に寝ていた母親から「変なとこ触るんじゃありません!気持ち悪い!」と激しく叱られた。

私は恥ずかしさで身の縮むような思いをし、以来、親に隠れてこそこそと触っては罪悪感と自己嫌悪で悶々とする羽目になった。

それよりもっと昔は男子のオナニーも恥ずべき行為と見做されていて、今みたいにジョークのネタにするような事すら憚られたのである。

このような「性」に対する潔癖にして抑圧的な考えは、いったいいつから浸透したのだろう?



オナニーという言葉は旧約聖書に登場するオナンという男に由来する。

オナンは兄の死後にその妻と無理やり結婚させられたのだが、兄の妻とセックスをするのが嫌でたまらず自分の手で精液を地に漏らしたために神から罰せられた、というエピソードだ。

つまり旧約聖書では既に自慰が「罪」として描かれているのだ。

「自慰は罪であり恥ずべき行為」というこの禁欲主義はユダヤ教とキリスト教において現代まで根強く残っていたようで、ユダヤ人の作家フィリップ・ロスの「ポートノイの不満」(1969年刊行)という小説では、主人公が思春期に親に隠れてオナニーをした後で神罰が下るんじゃないかとビクビクするシーンがある。

アメリカにあるキリスト教系のゲイ矯正施設では今でもオナニー禁止というルールがあるようだが、思春期の青少年がそんな施設で一週間も二週間もオナニー我慢させられたらゲイ云々以前に心が病みそうだ。



あらゆる欲望の中で、特に「性欲」は、「金銭欲」や「所有欲」などより遥かに汚らわしいものとして扱われる。

だが、性欲は食欲や睡眠欲と同様、生き物としての自然な本能なのである。

キリスト教的に言えば神の「産めよ、殖やせよ、地に満ちよ」との命令に忠実な、種族保存の本能だ。

その性欲をレイプなどといった形で発散すると他人に迷惑がかかるが、オナニーは誰にも迷惑かけないのだから罪でも何でもなかろう。

それなのに何故、人畜無害なオナニーさえ禁忌とするほど性欲は汚らわしいものと見做されるのだろうか?

私にとっては世界の七不思議のひとつである。



だが、そうやって忌み嫌われる一方で、セックスは何か特別なもの、神聖なものとしても扱われる。

性に奔放な人が「淫乱」などと言われて侮蔑されるのは、「セックスは決まった相手とだけやる神聖な愛の契り」だという大前提があるからだ。

つまり、愛する人とのセックスは神聖であり、愛ではなく欲望でやるセックスは淫らでけしからん、という理屈なのだろう。

しかし、「愛」と「欲望」というのは、そんなにきっぱりと分けられるものだろうか?

誰かを好きになったら触りたいとかキスしたいと思うものだが、その気持ちは「愛」なのか「欲望」なのか?

「愛から生まれた欲望なのだから、それはOK」というのであれば、逆に「欲望から生まれる愛」はどうなんだ?

そもそも誰かを好きになった時点で、それは「欲望」を少なからず含んでいるものではないのか?

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