女王様のご生還 VOL.257 中村うさぎ

9月15日の早朝に母が死んだ。

午前6時半頃に電話が鳴って、こんな時間に誰だよと思いながら出たら、介護施設のケアマネの人から「今朝、お母様か亡くなりました」と告げられた。

それを聞いて何の感慨も湧かなかったのは、予想していたとおりだ。

悲しみも喪失感も衝撃も、一切なかった。

実感が湧かないためかとも思ったが、それから10日以上経った今でも何も感じない。

愛情込めて育ててくれた母には申し訳ないし、自分が欠陥人間だなんて思いたくもないけど、私はやはりどこか感情が壊れているのかもしれない。

だって普通は母親が死んだら悲しむものなんでしょ?



昔、友人たちと「喜怒哀楽のうち、どの感情が苦手か?」という話をした事がある。

友人のひとりは「怒」だと答えた。

「たぶん腹は立ってるんだろうけど、どう怒っていいのかわからない」との事だった。

確かに彼はいつもニコニコしていて、あまり怒らない。

その点、私は普段から怒りっぽいので、怒るのが苦手と感じた事など一度もない。

私が苦手なのは、おそらく「喜」と「哀」だ。

「喜」に関しては、子供の頃から親に「何をしてやっても嬉しそうな顔をしない」と非難されていた。

自分ではそうでもないと思うのだが、言われてみると確かに、プレゼントなどを貰った時に「わぁ!」と目を輝かせたりはあまりしないかもしれない。

決して嬉しくないわけではないんだけど、表情や態度でそれを表現しようとすると嘘くさい気がして、つい淡々としたリアクションになってしまう。

そして、最も苦手なのが「哀」。

もちろん私も人間であるから「悲しい」という感情はあるのだが、他の人みたいに適切に泣けない。

「ここは泣くところなんだろうな」などと思いつつ、一滴も涙が出なくて困った経験は数知れず。

友人や親戚の葬式でも泣いた事がないし、もちろん卒業式なんかで泣いた事もない。

むしろ、そういう場で盛大に泣いてる人たちを見て「なんであんなに泣くんだろ」とドン引きするくらいだ。



そんなわけで、母の訃報を聞いても特に涙する事もなく、最初に思ったのは「喪服買っといてよかったぁ」であった。

じつは母の死を予測して、その一週間くらい前にアマゾンで喪服を購入していたのだ。

で、その喪服を鞄に詰め、大阪の実家に帰る用意をした。

大型台風が近づいていたのと連休で教会が忙しかった事もあって、葬式は9月20日まで持ち越されるという。

九州や関東に住んでいる母の姉や妹も、台風のせいで欠席との事だ。

父方の親戚はほとんど死滅しているし、母方の親戚も誰も参列しない葬式になったが、まぁ台風だから仕方ない。

ただ、母がこの事態を知ったら傷つくだろうなと思った。

彼女は以前から、自分が姉や弟たちから軽んじられていると僻んでいたからだ。

おまけに、たったひとりの娘まで自分の死を悲しんでいない。

父や私と違って誰からも嫌われない温和で控えめな人間だったのに、こんな寂しい葬式になってしまって気の毒である。

って、他人事かよ! 少しは悲しめ、私!



とはいえ、いざ葬式で母の遺体を見れば、こんな薄情な娘でも泣けるかもしれない。

などと期待したものの、やはりそうはいかなかった。

飾られた遺影の母は見慣れた顔だったが、棺の中に横たわる母の顔は知らない人のように面変わりしていて、正直、ギョッとしてしまった。

よくドラマや映画で遺族が警察に呼ばれて遺体を確認するシーンを見るけど、もし自分が呼ばれてこの母を見せられたら、母だと思わないかもしれない。

母の顔を覗き込む人々は口々に「安らかなお顔で」などと言うのだが、ちっとも安らかに見えなかった。

眉を険しく寄せて唇をぎゅっと引き結んだその表情は、むしろ、ものすごく不満げで何かに怒っているかのようだ。

どうしてみんな、この顔を「安らか」だなんて言えるんだろう?

それとも、私の目にだけ、こんなふうに映っているのか?

泣けない罪悪感とか、母にとって自分が決して理想の娘でなかった事に対する後ろめたさとか、そういった感情が母の死に顔を「怒っている」と解釈しているんだろうか?

いや、違う。

母の顔は本当に「安らか」なんかじゃなかった。

何か苦いものを飲み込んだ後のようなしかめっ面だ。

母の友人のひとりがわぁわぁと大袈裟に泣いて「典子さん、典子さん、本当につらいわねぇ」などと話しかけて来るのも妙な気分だった。

母が認知症になってからというもの、何年も母を避けて会いにも来なかったくせに、今さらそんなに大泣きするほど悲しいはずがあるか?

泣いてる自分に酔ってるんでしょ、と、白けた気分で会釈した。

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