産廃業からリサイクル企業へ~会社を変えた2代目女社長の格闘記【石坂産業】/読んで分かる「カンブリア宮殿」



自然を満喫!里山テーマパークが生まれるまで

埼玉県南部にある三芳町。池袋から電車で30分という便利さに、住宅が増え続けているエリアだ。そんな町で今、人気急上昇なのが、里山テーマパーク「三富今昔村」。

 地元の中学生たちが見つけたのはクワガタ。カブトムシもいる。夜訪れるとホタルが。ここの魅力は生き物との出会い。水辺でも川エビ、メダカなど、いろいろな生き物に出会える。園内にはミニSLも。様々な風景が展開する1周400mのコースは、なかなかの乗り応え。子どもから高齢者まで、ここなら1日中、楽しく過ごすことができる。

でもこの里山公園、以前は全く違う風景だったという。公園の生みの親、石坂産業社長の石坂典子が、以前の様子を語る。

「場所によっては人が中に入っていけないくらい。そうなると不法投棄につながってしまうんです」

ここはかつて、ゴミの不法投棄が絶えない荒れ放題の雑木林だった。

「当時、地元の方たちが困っていた手入れの行き届かない森を、少し人の手を加えることで、こんなに人が集まって楽しんでくれる場になると示したかった」

石坂産業の本社は里山公園の隣にある。年商47億円。いったいどんなビジネスなのか。

本社の隣にある建物は、地元の環境について学ぶ場所として石坂が作ったという交流プラザ。地産地消体験などを通じて環境について学べる施設だ。

そのカギはここで提供されている食事にある。使われる野菜の多くは、石坂が自社で育てた有機野菜。中でも大人気なのが濃厚かぼちゃスープ。他にない味わいだという。実はこのスープの出汁、料理に使った野菜のクズからとっている。本来捨ててしまう切れ端などを使って、甘みのある独自の味わいを作り出している。この「リサイクル」こそ、石坂のビジネスだ。



ゴミの95%を宝の山に変える技術

石坂産業の入り口を見ていると、大小様々なトラックが、ひっきりなしにやってくる。その数、実に1日400台。順番に巨大な建物の中へ入っていく。

運ばれてきたのはフスマに座布団、コタツもある。全て建物を解体した時に出るゴミ、いわゆる産業廃棄物。石坂産業は産業廃棄物を処理する会社なのだ。

関東だけでも5万社以上あるといわれる産業廃棄物処理業者。建物の解体現場などで発生した廃棄物。処理業者はそれを引き取ることでお金を受け取る。そしてその廃棄物を、破砕や焼却などをして量を減らすのが主な仕事になる。その後、再資源化できるものはリサイクルし、残ったものは最終処分場で埋め立てる。

実は石坂産業、そんな産廃処理業界で様々な賞を受賞してきた誰もが知る企業。工場にもひっきりなしに見学者が訪れる。その最大の特徴は、引き取ったゴミの実に95%をリサイクルしてしまう技術力にあるという。

一体ゴミが、どんなものに生まれ変わるのか? ポイントは分別にある。分けることでリサイクルできる。

例えば木の廃材は、専用の機械に流し込み、細かいチップ状に砕いていく。それを磁石のベルトを使って釘などを分別。これは鉄としてリサイクルする。さらにふるいにかけて、特殊な機械で加工をすると粉末状になる。この粉末が、バカ売れのリサイクル商品「エコモアチップ」なのだ。

普通の木屑と違い、角が丸いので、強く握ってもチクチクしない。これが石坂の独自技術。何に使われるのかといえば、牛の寝床にしかれる、いわば布団になる。木の廃材の加工に工夫をすることで、石坂は年間3000トンを売る人気商品を生み出しているのだ。

一方、プラチックと紙のゴミだけを分別したものは、破砕機で細かく砕いていた。これに熱を加え、圧縮してできるのは、「固形燃料」。コストも安く、様々な工場で使われている。さらに、分別された屋根瓦は、コンベアに乗せて細かく砕き、固めることで、吸水性の高い「床材」にリサイクルできる。

運転手さん大満足!極上おもてなしはこうして生まれた

「引き取った廃棄物から、できるだけ使えるものを取り出し、再利用したり再資源化することがメインの仕事です。埋め立てる廃棄物をどれだけ減らせるかが技術力だと思う」(石坂)

石坂産業は、ゴミとして持ち込まれたものに手を加えて人気商品に変える、最先端のリサイクル企業なのだ。

高度な技術を持つ石坂産業だからこそ、遠方からもトラックが詰めかける。だが実は他にも、圧倒的に支持される理由があるという。その理由をある運転手に聞くと、「石坂さんには行く楽しみがある。事務の女性にびっくりするぐらいきれいな人がいる」と言う。

本社についていくと、確かに女性の姿が目につく。なんだかアットホームな雰囲気。しかも暑い日には運転手に冷たい飲み物をサービス。日によってはキュウリの塩漬けや自家製じゃがバターがふるまわれることもある。

「私はこの会社に20歳のときに父のお手伝いで入ったのですが、当時、女性がいなかったんです。実際に20歳くらいの娘が働き出して、誰が一番喜んでくれたかというと運転手さんたちだったんです。やはり男の人にはこういうサービスが必要じゃないかと考えて、同級生をたくさん呼んで受付を女性だけにしました。ふだんはむすっとした運転手さんたちが疲れて会社に入ってこられても、女性たちが『いらっしゃいませ』と」(石坂)

1972年に創業者、石坂好男の長女として生まれた石坂は、20歳の時、石坂産業で事務員として働き始めた。当時、石坂の父は、巨額の費用をかけて、汚染物質を極力出さない最先端の焼却施設を建設するなど、業界を牽引する存在だった。



絶対絶命の危機で社長就任。父と娘の愛情の物語

石坂産業の周りには緑豊かな畑が広がる。全国トップレベルの生産量を誇る里芋に、青々としておいしそうな小松菜。しかしこの周辺は、かつて産廃銀座と呼ばれ、廃棄物を焼く焼却炉が立ち並んでいた地域だった。

事件が起きたのは石坂が27歳の時。1999年に起きた、所沢ダイオキシン問題だ。

産廃業者の焼却炉が原因で、所沢周辺の葉もの野菜から発がん性のある高濃度のダイオキシンが検出されたとニュース番組が報道。野菜の価格が暴落し、農家たちを追いつめた。

実際に検査をすると、その葉もの野菜からは、高濃度のダイオキシンは出なかった。しかし、農家への風評被害は止まらなかった。埼玉県の農家の被害額は推定3億円。周辺の農家は産廃業者への抗議活動に立ち上がった。特に風当たりが強かったのは、ダイオキシン対策をしていたにもかかわらず、規模の大きかった石坂産業だった。

石坂が社長室にかけつけると、父親は憔悴しきっていた。

「お父さん、この先どうするの?」と、石坂が話しかけると、父親は初めて、なぜ廃棄物処理の仕事を始めたのか、語り始めた。

父は中学を卒業後、鮮魚店やタクシー運転手など様々な職を経て、ダンプカーの運転手となる。それはトラックの運転手として、初めて東京湾にゴミを運んだ時のことだった。

「今のお台場のあたりに、家屋を解体した廃材を埋めるため、父は朝早くから並んでいたそうです。100台くらいのダンプが並んで、海に投棄している廃棄物を見ると、まだまだ使えてリサイクルできるものがいっぱい入っていた。これからはリサイクルをする時代になるだろうから、リサイクル工場を建てたいと思ってこの会社を起こしたと言っていました」(石坂)

そして父親は言った。「この仕事は、社会に必要な仕事なんだ」と。

追いつめられた父から、初めて創業の思いを聞かされた石坂は、その思い継ぐのは自分しかいないと決意し、30歳で社長に就任した。

産廃屋を地域から愛される会社に~女性社長の闘い

目指したのは、地域から必要とされる産廃屋。まず着手したのが、荒れ放題だった廃棄物置き場をきれいにし、地元の人に見せても恥ずかしくない会社に変えること。それはだらしなかった社員の勤務態度にも及んだ。

「あなたたち、勤務時間に何やってるの! 仕事しないなら辞めてしまいなさい!」と、声を張り上げることもあった。

改革により、半年で4割の社員が辞めていく中、石坂は1日も休むことなく工場を回り、社員に声をかけ続けた。その執念が、社員を変えた。生産統括部長の北村雄介は「粘り強く、根気強かった。『もっと良くしていかなければ』という気持ちになった。でも社長は相当苦労したと思いますよ」と、振り返る。

さらに石坂は40億円をかけて、前例のない、地域に迷惑をかけない処理システムを作り上げる。それが粉塵が外に漏れないよう完全に密閉した、ゴミを分別するプラント。屋内で動かせる電動の重機をメーカーと共同開発し、さらにトラックのタイヤに着いた埃さえも外に出さないよう、洗浄機まで作った。

「地域から不必要な会社と言われている状態を脱却していかないと、この場所で会社を続けていくことができなくなるわけだから、私たちが自ら襟を正し、行動を変えていくことが大切だと思いました」(石坂)

そんな石坂産業では、年に3回、全社員がボランティアで本社周辺の清掃に汗を流している。地域に受け入れられる会社になるため、10年前に始めたこの活動には、かつて石坂産業に反発していた住民も参加するようになった。中にはその理念に共鳴し、娘を就職させた人もいる。 

絶体絶命の危機が生んだのは、唯一無二の、地域と一つになった会社だった。



鍛え上げた技術力で世界的リゾートを救え

透き通るような美しい海が広がるインドネシア、バリ島。世界中から観光客が訪れる、アジア屈指の人気リゾートだ。そんなバリに石坂の姿が。この美しい島の裏側を見に来たという。

バリでは街の至るところに、ゴミがあふれ返っている。石坂は、海外でゴミがどう処理されているのか、その実態を探るため、世界を飛び回っている。

やってきたのは廃棄物処理会社。だが、そこにあったのは悪臭のする廃棄物の山。ハエが群がる生ゴミが混ざった膨大な廃棄物の中から、人の手でプラスチックを分別していた。

一方、道路脇に放置された土砂は、コンクリートや木材などが混ざった産業廃棄物。何年も放置されたままだという。

そもそもゴミを再利用するという考え自体、あまり根付いていない。例えば解体中の建物から出てきたガラスやコンクリートの廃棄物。日本では再利用するのだが、埋め立てに持っていかれる。

こうしたゴミのほとんどは、石坂産業の技術を使えば、リサイクルできるという。会社の危機を救うため鍛え上げた技術力で、石坂は今、世界を救おうと考えている。

国による廃棄物処理の現状の違いについてたずねた小池栄子に、石坂はこう答えている。

「日本はゴミをほとんど焼却処理しているのですが、世界を見るとほとんどが埋め立てをしている。土地が広いので分別せずに埋めてしまう国もたくさんあります。ゴミを減らす意識を持っている方は少ないんです」

「世の中になくてはならない仕事」という誇りを胸に

続けて、「廃棄物処理がどれだけ自分たちに利益をもたらすか、その重要性が広まらないといけないのではないか」と言う村上龍に、石坂は次のように語った。

「製造業の業界が生産したものと同じくらいの量が廃棄物になると考えると、いかに私たちがふだん、リサイクルするまでの廃棄・再生・埋め立ての流れを意識しないで生活しているのかがわかると思いますし、この仕事をしている業界の人たちは、汚い廃棄物を分けたり、臭いの強いものを分けたり、すごく大変な仕事をされている。皆さんから目を向けてもらえば、そんな彼らの励みにもなると思うんです。なくてはならない、誰かがやらなくてはいけない仕事だからこそ、これから先、私たちがどういう廃棄物を出すのか。少しでも出す量を減らし、あるいは出す時に少し配慮した出し方をするか。それによってコストが下がることをわかっていただけるかどうかによって、我々のビジネスの“道しるべ”は、まったく違った方向に変わっていくと思います」

石坂産業に近所の中学生たちがやってきた。目的は、ゴミの分別とリサイクルを間近に見られる工場見学だ。ここを訪ねる見学者は毎年1万人以上。海外から政府関係者が来るなど、その技術が世界から注目されている。

見学するための通路は、石坂が2億円をかけてわざわざ作ったものだ。自分たちの仕事は、世の中に欠かすことのできない社会を支える仕事。父親から受け継いだその誇りを胸に、石坂は走り続けている。



~村上龍の編集後記~

消滅するかもしれないという危機的状況から、見事に会社を再生、かつ進化させたのは、典子さんだが、支えたのは、父親で、創業者の好男氏だった。

すべてを語ることなく、手取り足取り教えるわけでもなく、事業の継続という最優先事項を、単なる会話ではなく、生き方で示した。

「ダンプのにおいがいちばん落ち着く」という典子さんは、幼いころからの体験も活かし、産廃処理の概念さえもポジティブに変えてしまった。

だが、「キレイごとでは、地球はキレイにならない」という言葉が示す通り、徹底したリアリストである。

<出演者略歴>

石坂典子(いしざか・のりこ)1972年東京都生まれ。高校卒業後、アメリカに短期留学。1992年、父親が創業した石坂産業に入社。2002年、父親に直談判し、社長に就任。