『崖の上のポニョ』論

※2008年の原稿です。

題名:変わっていく現実と夢の混合比――スタジオジブリ第2の出発点『崖の上のポニョ』

●現実と夢の境界に自覚的だった 宮崎駿監督作品

 「子どもに夢を」という手垢のついた言葉がある……。

 スタジオジブリと宮崎駿監督の最新作『崖の上のポニョ』について考えようとしたとき、まずこの言葉が脳裏に去来した。そもそも子どもとはいったい何歳までの児童を指しているのか、夢とは何のことか。解釈はいかようにでもできる。なのに、何となく「ジブリ作品は子どもに夢を与える」とイメージだけが一人歩きしてはいないか。

 察するところ「子ども」とは未就学児童から小学校低学年まで(つまり年齢ヒトケタ)のことで、強いて言えば大人の中の童心もカバーした言葉だろう。そして「夢」とは「現実の束縛から離れて解放された感情」のことだと定義できる。この点においては、ディズニーらが始めたアニメーション映画が確立し、繰りかえし追求されてきたデファクトスタンダードな方向性とそれほど齟齬はない。

 しかし、こう再定義したとたんに「?」という思いにも囚われてしまう。いわゆる「ジブリブランド」とされている作品タイトルを列挙して検証すると、意外なほど「子どもの夢」方向に振り切った作品が見あたらない。少なくとも『ポニョ』以前に、あれほど奔放に現実のタガを外して夢方向にふりきった解放的な作品はレアなはずだ。

 子ども向け作品の代表とされる『となりのトトロ』の1シークエンスでも、夢に振り切っていない様相は端的に発見できる。深夜に目をさましたサツキとメイは、トトロの不思議なパワーによって植物がみるみる成長する「秘蹟の場」に遭遇し、コマに乗ってトトロといっしょに空を飛翔する。だが、一夜明けるとその確たる証拠は残っておらず、かと言って夢とも言い切れないささやかな痕跡が示される。つまり、『トトロ』でも現実はゆるぎない地続き感で描かれている。

 宮崎駿が映画監督としてデビューした『ルパン三世 カリオストロの城』でも、やはり夢と現実の対比はシビアだ。クラリスの居室に忍び込んだルパンは塞いだ少女の心に闇を見て、ドロボーの力を示そうと努力する。力んだルパンが見せるのは、「今はこれがせいいっぱい」というマジック……タネも仕掛けもある指輪に仕込んだ万国旗だ。もちろん物語がラストにさしかかれば、ルパンは約束どおり「湖の水を飲み干す」パワーを魔法のごとく発揮するが、少女の心を解放したのはささやかなる現実的な旗の方だった。

 宮崎駿監督の作品はこのように、夢だけを野放図に与えることに対し、きわめて抑制的である。そして夢と現実の境界は常に明瞭に意識され、それを描いたシーンはいくらでも例証をあげることができる。「世間で思われてるほど、ジブリ作品は夢を子どもに無軌道に与えてきたわけではない」ということは、もっと注意深く語られることが必要だ。作品のそこかしこには常に現実の「おもり」がついていた。だからこそ登場人物が飛ぶシーンのような「夢」が貴重に見える。そういう構造になっている。

 暗い映画館での鑑賞体験中、観客も確かに「おもり」を体感していたはずだ。しかし、明るくなってからそれは忘れられてしまう。追体験として語られるのは、いつも「飛ぶ」方だけである。映画の見せる「夢」とは、そういうものなのだ。

●現実と夢の混合が 爆発的燃焼を生み出す

 非常に乱暴な言い方をすれば、アニメーションとは「現実」と「非現実(夢)」の混合でできている。決して「シュガードリーム」だけで構築されているわけではない。エンジンの中で気化したガソリンと空気の比率によって爆発的燃焼が起きるように、アニメーションに力を与えるエネルギーとは「夢」そのものから発生するのではなく、「現実と夢の混合比」から生まれるものだ。

 スタジオジブリの主軸となっている2人のアニメーション作家、高畑勲と宮崎駿の作劇も、基本的にこの構造にもとづいている。高畑勲のリアリズムに充ちた世界への洞察、登場人物の心理への肉薄を「現実」とするならば、宮崎駿の生じさせる仮想空間としてのレイアウト、無に等しいキャラクターに実感を与えるアニメートは「夢」に相当する。こう整理することで、2人がコンビを組んだ作品のパワフルさと一種の「スキのなさ」の両立もまた、「現実と夢の混合比」で説明できるようになる。日本のアニメーションにおける表現に根源的影響を与えた『アルプスの少女ハイジ』、『母をたずねて三千里』は明らかに高畑系「現実」の比率が高い。『パンダコパンダ』の方は、むしろ宮崎系の「夢」の方の比率を高めているのではないか。

 同作で宮崎駿は「脚本」としてクレジットされているが、おそらくシナリオを書いてからイメージボードに展開したのではなく、まず映画の核となるシーンを「絵」として発想して紙に定着するところから始めたはずだ。そのイメージボードを何枚も壁に貼り、それを入れ替えたり描き足したりしつつ、物語展開を決めたものと思われる。

 これは東映動画(現:東映アニメーション)で年1本の長編映画を作っていた50年代、60年代において採択されていた手法である。物語構成を深めるとともにシークエンス単位の演出意図を立体的に検証し、共同作業者であるスタッフ間で「意識合わせ」をするためにとられた伝統的な手法とも言える。最新作『ポニョ』も「見せたいイメージだけを次々と見せていく」フィルム上の手業から察するに、おそらく同じようなイメージボード主導で話を作ったものに違いない。

 またも乱暴なたとえ話を追加するが、この「現実」とは「理(ロジック)」のことでもあり、「夢」とは「情(エモーション)」のことでもある。それ単独では空疎になりかねない「絵」を「感動」の高みへと導くためには、理で構築された現実感の積み上げが必要とされるのだ。

……という風に考えてみると、スタジオジブリ作品とは、単に「子どもの夢」をこねてつき固めた類のアニメーション作品とは一線を画している。「理と情」という人間的に重要な両側面から「心というエンジン」への適正な燃料を注入するものだと言えるのではないか。そして感動の主体、心をドライブするのはあくまでも観客なのである。

●最新作『ポニョ』に見られる 現実と夢の処理方法

 「現実と夢、どちらが欠けても作品として成立しない」という思いは、ジブリとしの作品づくり以後に強くなったようにも思える。特に『トトロ』以後の作品には、それが顕著だ。日本の自然風景を重視したり、エコロジーを筆頭とする社会問題へのコミットメントを主題に反映させるという傾向が強く反映されるようになったということだが、それもここで述べた「混合比を調整して現実味を多く与えて完全燃焼したい」というこだわりの結果のようにも思える。

 こうした考察を踏まえて、『崖の上のポニョ』を改めて考えてみると、いったい宮崎駿監督に何が起きたのかと下世話な関心を喚起するほど、この「現実と夢の混合比」に無頓着となった描写が目立つ。事前に盛んに言われた「CGを使わない」という話題にしても、実はこの「混合比をでたらめにいじくる」という大命題のサブセットに過ぎないと思えるほどである。

 もう少し『ポニョ』に見られる「現実味」の処し方について述べておこう。予告編しかなかった当時は情報を伏せてあったこともあって、ジブリ美術館の短編を発展させたような絵本的作品のように思われた。ところが映画がスタートすると、実はきちんとした物語があり、主人公・ポニョと宗介を取り巻く環境も現実と地続き感を保った世界であることが、端的な描写から伝わってくる。

 海底は人間の捨てたゴミにあふれ、ポニョが囚われて生命の危機にさらされるのも、人間が廃棄したビンのせいだ。ポニョの父はそうした人間への憤りを長年抱き続け、逆襲の企みを抱いている。宗介の母親は老人のデイケアサービスセンターへ軽自動車で通勤し、「老い」を直視しながらもバイタリティにあふれた生活を営み、夫とも息子とも名前で呼び合う。父親は船乗りの仕事で、めったに家には帰らない……。いずれにしても、何か現実につながる問題が見えてきそうな描写のタネが随所に散りばめられている。

 ところが……そうした物語の軸になりそうなものはほとんど進展のないまま、話は感情的な高揚に向けて突き進んでいく。ことに映画の中盤、ポニョが宗介の再会へ向けて驚くべきイメージを喚起し、壮絶なアニメーションの噴流が押し寄せてきてからは、めっきりと虚実の境界が曖昧になっていき、伏線めいて提示されてきた現実との接点も、主人公2人が乗り越えるべき葛藤や妨害も、次第に霧散してどうでもよくなっていく。

 それが決定的になるのは崖の上の家までもが水没した場面以後だ。ここでは『パンダコパンダ 雨ふりサーカス』と同様に、洪水のもつ恐ろしさ(水死者や衛生面の災害など)や深刻さはいっさい描かれず、現実味をシャットアウトしている。画面上も、水没した家屋やデボン紀の生物を下に見ながら、ポニョと宗介が玩具の船で夏らしく水遊びをするという、中盤の情熱をたたきつけるような動画表現とは好対照の穏やかなシーンが続く。起きている事態の激しさと好対照の静謐さや感情の穏やかさは、まさに「真夏に見る夢」の属性だ。

 この「現実感という土台を決壊させた」ような感覚があるからこそ、『ポニョ』はこれまでのジブリ作品とは一線を画しているように思えた。一貫性の喪失、主観的な事象の変容は、実は宮崎駿監督作品に散りばめられた定番でもあるので、今さら驚くに値しないかもしれないが、ここまで中心になったのは初めてではないか。「もう、やりたいことだけをやる。見せたいところだけを見せる」と開き直ったかのようにアレコレと理屈めいたものを放り投げたのは、驚愕の展開でもあり、同時に妙な歓喜を覚えさせるものであった。こうした不整合を奇異に感じるか、それともあるがままに受け止めて快楽に身をゆだねるかで、『ポニョ』という作品への評価は大きく変わるだろう。

●『ポニョ』を支える水の表現と 2つの世界を隔てるもの

 もうひとつ、こうした「現実と夢」の関係性を考える上で重要な補助線が『ポニョ』には見いだせる。それは、宮崎駿監督作品の大きな特徴のひとつである「水の表現」だ。

 液体である「水」は決まった「色」や「かたち」を持たないため、アニメーション表現においてはセルと作画で描くことが難しいものの筆頭とされている。特撮でも「火と水」は縮尺を含めたコントロールが苦手で難物と扱われているし、CGの世界でもパーティクル(粒子)技術などで表現の開拓を試みているが、なかなか万全にはいかない。

 ところが宮崎駿の手にかかると、見事なアニメート技術の集積により、「水」は実感できる存在としてフィルムの上に定着される。特に『ポニョ』には「海」をひとつのキャラクターとしてとらえるという基本的な演出方針があった。目玉のついた「水魚」という擬人化の他、水中で色を変え、水面の波頭と水中のカゲをゆらめかせて奥行きをもたらすなど、過去の作品でも積み重ねられてきた水表現を総動員し、水が生きているような感じを与えている。

 その水に与えられたパワーが最大限に噴出し、映画に大きな情動とスペクタクルを与えるシークエンスが、大波と洪水に乗ってポニョが再会を迫るくだりであることは言うまでもない。ここでポニョの妹たちと一体化した波は、アニメーション表現としては色トレスではなく実線で描かれ、画面の主役の座をもっていく。まさに「動く絵」が「生きている喜び」に直結した瞬間がそこに結晶化されている。それは原初の生命が海から発生し、人間の血液もまた海水と似た成分で、身体の内部は海とつながっているという点で、海の方から陸へ一体化を望んで来るということ自体、テーマの具体的表現となっているから、極めて貴重なシーンなのである。

 さて、ほとばしる水の壮絶な噴流に彩られた2人の再会を見つめながら、筆者の脳裏には宮崎駿がかつて描いた1枚の絵が浮かんでいた。1983年に発売された「宮崎駿イメージボード集」(講談社)の表紙に使われた描きおろしの絵である。構図の3分の2は人魚の少女がいる水槽の世界。そして画面左下からは、後のパズーを連想させる工員服を着た少年がおそるおそる光を照らし、少女と見つめあっている。全体の場所はどこか薄暗い秘密研究所か何か。水槽の中はなぜか光に充ちていて、そこにはサンゴの樹や緑のようなものが見える。

 「世界観」という言葉はファンタジーにおける設定のことではなく、本来は人間が思想的に外界をどう把握するかという意味である。その定義において、これは宮崎駿監督の世界観を集約した絵なのだと思う。少年のいる世界は労働や生活など、地味で暗くてつまらないと思われがちなものばかりだ。一方で人魚のいる水槽の中は、美しい色彩と光に充ちて輝いている。もちろん少女も美しい。

 両者は見つめ合うことはできる。だが、決して触れあうことはできない。隔てているものは、ガラスの水槽それ自体ではない。二人の住む世界が「空気」と「水」と、充填されているものが根底から違う、相容れない原理に支配されているから、隔てられているのだ。そして、美しい世界は閉ざされたものとして、見つめるだけのものでしかない……。

 これは現実と夢(=アニメーション)の関係を一枚の絵に封じ込めたものでもあるはずだ。

●混合比を変えてみた 『ポニョ』の「現実と夢」

 思えば宮崎駿監督の作品とは、このような類の「バリアで隔てられたものたち」の「越境」の話ばかりであった。こうした障害を乗り越えること自体がドラマでもあるから、それは映画に感情面から大いなる力を与えるものであった。同時にこの「バリア」は安易に無くなったりはしない。『もののけ姫』のラストでアシタカとサンがともに暮らさない決意をするように、「隔て」を厳然とあり続けるものとして、認めたり受け入れたりするものとしていく。

 現実と夢の関係が変化し続け、秩序が乱れることはなかった。変化するのは、人間の方である。だが、一度その境界が曖昧になって相互の越境が行われることには大きな意味がる。現実に戻った人間から見つめる世界の姿も、ほんの少しだけ変わるからだ。「生きる」ということは、物理法則に縛られた肉体の問題と、人生の時間をどう使って何を生み出すかという精神の問題の両面あって成立するわけだから、「現実と夢の混合比」が変わることで、生命の燃焼の様相も変わる。それが映画の、アニメーションの価値である。

 もともとアニメーションという表現は、静止して物理的には死んでいる「絵」を錯覚によって「生きている」とすり替えることで成立するものだから、越境性の強い手段である。そういう点でミニマムとマキシマムが通底しているし、このような目的に適したた芸術表現と言える。

 こうした思考を積み重ねてみると、『崖の上のポニョ』でやっていることも、映画、アニメーションに求められていること、宮崎駿監督が長年やろうとしてきたことと、根底が変わったわけではない。変化したのは、あくまでも「混合比」である。今回は「現実」の方のバルブを少し締めつけて、「夢」の方を全開にしたら「ドカン!」と来たという、そんな印象である。いつものようなエンジンのスムーズな調子を期待したら、妙な黒煙が吹き出てきて轟音が響いたのでビックリ。だけど爺さんは真っ黒にすすけた顔でケタケタ笑いながら、次のホラ話を続けようとしてるので、こっちもつられて笑ってしまったと、そういう印象もともなうフィルムではないだろうか。

 そういう点では、最初に述べた「子どもに夢を」という言葉が『ポニョ』にして改めて問われるようになったのだとも思う。「子どもにとっての夢だと大人が思い込んでいるもの」を押しつけようとしているのか、「子どもが夢を体感するための触媒」を伝えようとしているのか。この差は非常に大きい。

 ただし現実的な「構え」のすべてを外し、ある種無防備とも言えるほど宮崎駿自身をむき出しでさらすところから始めた『ポニョ』には、理屈を超えた強さが感じられる。分かる力をもった子どもには、真っ直ぐ自分に向いている視線も見えるはずだ。

 最後に本作を見て最初に直感的に浮かんだもうひとつのキーワードにも触れておこう。それは「還暦」である。

 満60歳に相当する還暦には、伝統的にいろんな意味あいが込められてきたが、なぜ赤い衣服を着る習慣があるかといえば「そこで再び赤子に還る」という重要な意味がある。

 『ポニョ』発表時の宮崎駿監督は67歳。だが、構想時は65歳だったはずだ。60歳でリセットがかかったとすれば、5歳に相当する。『ポニョ』の主人公・宗介の年齢とまったく同じなのは、決して偶然ではないだろう。そして、実は未就学児童の主人公は、宮崎駿監督のアニメーション作品でも、未体験ゾーンなのではないだろうか。『となりのトトロ』にしても、当初女の子一人で考えてた主人公の構想を、サツキとメイという姉妹に分離している。

 こうしたことも「夢と現実の混合比」の変化、その現れの一端だとすれば、作者自らが子どもに還って大きく「夢」方向へ舵を切った『ポニョ』という作品は、スタジオジブリの還暦的作品とも言えるのではないだろうか。年齢を重ねて子どもになった夢の老人と現実世界の子ども。その心の共鳴には、もしかしたら日本の何かを大きく変える可能性があるのかもしれない。

 なぜならば、日本を覆う陰鬱な雰囲気もまた、「現実により過ぎた混合比」によるものではないかと思うからだ。「リアリズムを踏まえた夢」を触媒にして、意識が変われば世の中も変わる。

 ここからまた何か大きく変わり始める可能性という点でも、『ポニョ』はスタジオジブリ第2の出発点になる作品ではないだろうか。

【2008年7月23日脱稿】初出:雑誌『CONTINUE』(太田出版)