『コゼットの肖像』論

題名:映像の散文詩が照射する人間の本質

――新房昭之監督の映像感覚

●本来は詩的表現に近いアニメ

 アニメ作品に何を求めるかは、作家も観客も人それぞれだ。

 とは言うものの、たとえばリアルさを求めすぎれば実写に負けるし、物語の構成や整合性を強めれば論理中心に構築された小説には到底かなわなくなる。大多数のアニメは、商業上の要請もあって物語を語る装置として制作され、その観点での優劣が論じられ過ぎているように常々危惧している。アニメがアニメであるためのメリットとアイデンティティとは、むしろ本来はもっと別のところにあるはずだ。それは芸術性の高いアニメや自主作品の多くが物語性から自由であろうと試みていることからも、容易に推察がつく。

 アニメの優位性とは、手描きの絵をベースとした映像と、音響を時間の中で積み重ねていく様式の中にこそ存在する。その視覚・聴覚の相乗効果による印象は、言語のような論理を超える力を持ち、それゆえの魅力を獲得するはずだ。そのように言葉を超越できることを確信しつつ映像を駆使する作家は、まず映像の方から発想して物語を考えていくのだろう。新房昭之監督の映像を観る限り、そのタイプの作家のように思える。

 線と色彩で表現された絵が時間とともに変化し、言葉や音楽と調和したり衝突したりして体感的に化合するとき、論文や小説とはまったく違った感情の変化が観客に起きる。その感覚は、言葉の喚起するイメージ表現の詩に近いはずだ。詩歌の中には行分けをせず通常の文と同様に書かれたものがあって、それは「散文詩」と呼ばれる。だとすると、『コゼットの肖像』とは、そのような散文詩にきわめて近い作品なのではないか。

●新房昭之監督の代表作『The Soul Taker』

 新房昭之監督と言えば『メタルファイターMIKU』、『それゆけ!宇宙戦艦ヤマモト・ヨーコ』といった作品で、単に可愛いだけではないキャラを活写した美少女系アニメ作家として知られている。その頂点にあるのは、2004年秋の話題を独占した『月詠 -Moon Phase-』の「Neko Mimi Mode」(オープニング)だろう。

 ただし作家性ということに着目すると、本作『コゼットの肖像』に一番近しく代表作と言えるのは、2001年の『The Soul Taker ~魂狩~』に間違いない。スピンオフ・キャラクターの小麦ちゃんの方がいまや有名かもしれないが、リリース時にはその斬新な映像が大きな話題になった作品だ。タツノコプロが新世紀に送るダーク・ヒーローものというのが企画の骨子だが、何よりショッキングだったのはその先鋭的なビジュアルと色彩である。

 まず、登場する画面のほとんどすべてがコントラストの強い色味でアブノーマル処理が施され、多くはモノトーン処理になっている。画角も極端な寄りや空間が湾曲したロング、あるいは手前を物体で隠す深いナメの構図や、激しくパースの変化する全画面移動が全編にわたって多用されている。通常の画面などは、皆無と言って良いくらいだ。マイク・ミニョーラ作のアメリカン・コミック『ヘルボーイ』を参考にしたと思われる、黒ベタの陰影が常に貼りついたような画面づくりは、悪魔的外見のミュータントに変身する主人公・伊達京介の暗い宿命によくマッチして、謎めいた物語を独特の映像感覚がグイグイと引っ張っていた。

 慣れるまでは、何が行われているのかすらつかめないほどその映像はラジカルだが、馴染んでくるとその幻惑感がたまらなく病みつきになる……『The Soul Taker』とはそうした作品であった。

●『コゼットの肖像』に引き継がれた映像感覚

 『The Soul Taker』の物語は、伊達京介が母親に殺され鮮血が降り注ぐショッキングなシーンから始まる。場所はステンドグラスの色合いが美しい教会の中だ。なぜ殺されなければならなかったのか……復活した京介は、その謎の解答を求めながらエキセントリックな虚飾の世界を遍歴する。

 ステンドグラス、鮮血の赤、死と直結した闇の深淵、世界の遍歴といったエレメントは『コゼットの肖像』にも新房監督独特の作風としてストレートに受け継がれている。『コゼット~』の主人公・倉橋永莉も「獣と化すもの」の眷属であり、ともにナイーブな声は斎賀みつきが演じている。世界から孤立してもなおピュアに真実へと迫ろうとするひたむきさの性格も、両者に共通している。

 ヒーローものである『The Soul Taker』は激しいバトルを介して主人公が自身の獣性を駆使しつつ世界との折り合いを見つけていく物語だった。対する『コゼットの肖像』は、どちらかと言えば絵画的で現実世界の淡々とした日常風景からスタートする。だがやがて『コゼット~』にも激しいアクションが待っていたのは衝撃的である一方、それが流血や傷というイメージに収斂することで、何か腑に落ちるものを感じた。

 ここで脳裏に浮かぶのが「フラクタクル」という概念だ。ある図形の部分を拡大してみると、元の図形の相似形が現れる場合、そんな性質をフラクタクルと呼ぶ。自然の山脈や波などは実はこの自己相似図形でできており、人はそれに自然な美を感じるという。

 だとすると、新房監督の得意とするモノトーンの映像美とは、たとえば押井守監督のように映画すべてを特定の色合いに染め抜くものではなく、ワンショットごとにキーカラーで彩られたモザイクの断片なのだ。部分部分に注目してもその意味性は限られてしまう。むしろ、色彩や映像ショックの連なり、あるいはカットつながりにおける断絶や衝突などが全体としての意味を描きだし、美意識の獲得につながる牽引力となっているはずだ。

 ステンドグラス、虹色のヴェネティアガラス製ゴブレット、モザイクタイルの床、そして何よりもコゼットの絵画の連続がズームバックしていくと別の絵になるショットなどは、こうしたフラクタクル構造を暗示するために置かれているものと見て良い。

●『コゼット~』のゴシックホラー感覚

 こうしたことを積み重ねて考えていくと、『コゼットの肖像』の扱っている題材も非常に象徴的に思えてくる。

 まず本作ではコゼットのキャラクター造形が作品の中心にあり、それは言うまでもなく“ゴシックロリータ”をモチーフにしている。フリルのついた黒服、純白の顔に長い金髪などは、いわゆるゴスロリのファッションである。しかし、このアニメの世界観の底流にあって支配的なのはむしろ“ゴシックホラー”の持つオカルトや衒学主義といった要素の方であろう。

 「ゴシック(Gothic)」とは芸術の領域では本来「ゴート人の」を意味する。欧州の芸術において「ゴシック美術」とはルネサンス以前のものについて言われ、12世紀のノートル・ダム大聖堂のような様式の建築がその代表格である。

 その一方で「ゴシック小説」と呼ばれるものはもっと時代がくだった18世紀から19世紀初頭、イギリス文学のロマン主義的小説のことを指し、ゴシックホラーもその1ジャンルである。謎と恐怖など人間の原初的な感情を強調したこれら物語が、すでに600年を経たゴシック様式の建築を舞台とすることが多かったため、そう呼ばれるようになったわけだ。

 ゴシックホラーの伝統は、産業革命を経て科学全盛の時代になり、現代にいたっても小説や映画の世界で何度も転生を繰り返している。ゴシック小説の吸血鬼や人造人間といったモチーフは、現代ホラーやSFの源流となっているが、その要素の中にはもちろん『コゼット~』に登場する「肖像画の呪い」や「幽霊」「憑依奇譚」もある。

 だが、そうしたストレートな「ネタ」的なことよりももっと大事なことがある。

 それは「恐怖」という感情が惹起する、人間の本質的な核をあぶり出すためにこそ、ゴシックホラーの様式が必要だったのではないか、ということだ。

●人間の本質に迫る先鋭的映像感覚

 『コゼット~』の作中では、対置された二つのものがコゼットを中心に繰り返し登場する。それは「死と生」であり「肉体と絵画」であり、「愛と憎しみ」である。それらはたとえば「器物が記憶する」という設定を根拠に何度も倒置が重ねられていく。その結果、本来は「憑依もの」であれば除霊が解決になるはずなのに、逆方向の展開が待っている。

 対置されているはずのものが実はきわめて近い位置にあったり、ほとんど同じと言って良いものだということが、ここに暗示されている。これは、「人間の本質」に迫るものなのだ。たとえば「流血」とは、恐怖を喚起するものだから「死の象徴」と言える。しかし、その恐怖を予感するということは、生への本能が健全だからこそで、「生の象徴」と言っても良いわけだ。

 このように、デジタル的な思考に陥ってしまえば一致するはずのないものも、深い底ではつながっている。科学万能時代になっても情報化社会になってもホラーが必要とされる理由の抜本も、こうした一方的な論理の超克を求める人の心の普遍性にある。

 もちろん全3話、物語としての落としどころは用意されているが、そのプロセスこそが美しいし、途中途中で先鋭的な映像を観て、あらためて自分の内的にわき起こる感情がおもしろいと思った。一見してエキセントリックな映像構成も、メタファーとして使われているさまざまなアイテムも、そうした人の心が自身の中に見いだす意味の触媒として置かれているのだろう。

 その意味で、本作は「生命をふきこむ」というアニメーションの語源どおりである。そして、再見・再々見してこそ味わいの深くなる「映像の散文詩」と呼ぶのに、やはりふさわしい作品なのだ。

【2004年11月7日脱稿】初出:DVD『コゼットの肖像』解説書(アニプレックス)