アニメーションを映画にしていくということ

 映画とアニメーションは、幾重にも入り組んだ複雑な関係をもっている。もともと「驚き盤」などで確立していた動く画の原理を写真術に応用して映画が発明され、事実その初期は「活動写真」という呼称のとおり「動くこと」それ自体が集客の核だった。やがて物語性を獲得して「劇映画」に発展した後を追うようにして、ディズニー最初の長編『白雪姫』(37)からアニメーションも「動くこと」自体の楽しさ珍しさから、物語やドラマを内包した世界へ足を踏み出したのだった。

 しかしアニメ映画は「動物が歌って踊るやつだろ?」という偏見からの脱出が難しい。技術が3D-CGになっても、いまだアメリカ産のアニメ映画はそのパラダイムに絡めとられ、偏見の壁は厚い。

 日本ではその事情がすこし違う。映画的表現を意識したストーリー漫画の影響もあって、特に70年代後半からは中高生以上から大人までもがアニメを映画と同列に楽しむ状況が現出した。そうすると今度は物語性が重視されすぎて、アニメーション本来の「画」や「動き」の積み重ねでキャラクターや世界を見せていく部分が、ともすれば希薄になる。

 こうしたバランスが国内でとれているのは、スタジオジブリと宮崎駿監督の一連の作品である。ただ、それにしても「ファンタジー」的な枠組みから大きく抜けるものではない作品が多い。実写映画と互角の人物造型の深みをもち、物語も充実していて、なおかつアニメーション的に動きまくって画づくりも気持ちがいいと条件を重ねれば、作品も作家も非常に限られてくる。

 そういう流れのなかで、細田守監督というクリエイターと彼の代表作である『時をかける少女』(06)、『サマーウォーズ』(09)という2本の映画は、まさにこの条件にピッタリの快作だ。それが現代の観客に受け入れられている状況は、非常に歓迎すべきものである。まだまだ「アニメーションで映画」という試みは始まったばかりという予感があるからだ。未来に見える期待の輝きが、この2本の映画のビビッドな内実とシンクロし、妙味をもたらしているのではないだろうか。

【2009年9月2日脱稿】初出:仙台映画祭・細田守監督特集パンフレット