「足元を見る人」の足元を見よう  コケおどしタイトルや血液型との共通点

「おしゃれは足元から」。高価なブランド品を身に着けていても、靴などに気を払えない人はお里が知れるといわれます。

よく元客室乗務員や秘書など、エグゼクティブ周囲で働いた方のコラムなどで、靴がしっかりしていないのはダメな証拠というような厳しい意見もあります。ホテルのドアマンや高級クラブのママさんなども、やはり「足元で人柄がわかる」ということを言ったりするのを見かけます。

しかし本当でしょうか?足元がきちんとしていない人はダメなんでしょうか?

おしゃれの真髄が、そうした足元に現れるという意見に何の異議もありません。ただし、だからといって足元を見ただけでその人を値踏みするという思考はどうでしょう。筆者が提唱している戦略コミュニケーションでは、「思考をしないこと」や勝手な思い込みこそ、もっとも罪深いものとしています。

ハウツーもののように「○○ならば××」という法則性はわかりやすいと思いますが、それは思考の否定につながります。コミュニケーション能力を高めるには、常に自ら思考する姿勢と判断力が欠かせないのです。



1.赤い服を着た女性って・・・・

オシャレやファッションセンスというものに全く縁のないわたくし。靴がどーのこーのいう資格もセンスもございません。そこではなく、足元という、一つの要素やインジケーターをもってセンスや品格を判断する行為がおかしいと言いたいのです。

私が高校生くらいのころ、「赤い服を着た女性は欲求不満の表れだ」と講義して下さったのが友人のY君です。(さすがに名をふせてあげましょう)今考えればどーみても彼が他人に講釈垂れることができるほど女性への造詣があったとは思えません。

こんなような男子高ファミレス会議では、日々モテないやつらがヒマを持て余し、女性との交際についてとか、結婚とは何にか(高校生のくせに)といった哲学的課題について討論し合ったものです。こうした恥ずかしすぎる過去を堂々カミングアウトできるようになったのも、自分が齢を重ねてきたからからなのでしょう。今は己のバカぶり満載の過去に、懐かしい郷愁すら感じます。

このファミレス会議論争と、靴だけで人物を判断する行為には共通性があるのではないでしょうか。一点をもって全体を決めつけてしまうという強引さ、もっとも前者はそもそも根拠もない妄想空想ですから説得力はありませんが、思考のない思い込みという点では似ているといえなくもありません。



2.認知のゆがみ

心理学でハロー効果と呼ばれるものがあります。良くも悪くも「目立つ特徴」が、全体の印象に大きく左右してしまうことをいいます。例えば、美人やイケメンは性格も良い(逆に悪い)と勝手に決めつけたりするような考え方です。美人(イケメン)で性格が良い人もいれば悪い人もいますし、その逆もさまざま。見た目と性格は一致することもしないこともあり、どうみても個人によるとしかいえないにも関わらず、短絡的に決めつける方がそもそもおかしい訳です。

コミュニケーションをする上でこうした勝手な決めつけは非常に危険です。コミュニケーションにおいて印象は大きく影響します。ノンバーバルコミュニケーションなどといって、言葉「以外」の要素で成り立つコミュニケーションがあります。例えば表情や姿勢、服装もその一つ。「足元でわかる」というのは、正にノンバーバルな要素による評価になります。

ノンバーバルコミュニケーションも重要なコミュニケーションの要素であることは間違いありません。私はコミュニケーションの講座などで、ノンバーバルなコミュニケーションについてもその実践含めて教えています。しかしながら「言葉に拠らない」ということはすなわち、正確性においてはきわめて信用に足らないともいえます。言葉こそが主であって、言葉以外の要素が従である位置関係、正確なコミュニケーションにおいては変わりありません。



3.民族紛争

言葉が万能ではないのはもちろんなのですが、だからといって言葉で説明のつかない価値判断は危険です。人種偏見や差別などが良い例で、勝手な思い込みがそうした偏見や憎悪を促進します。外国であれば血で血を洗う民族紛争になり、いまだに尾を引いていることもあります。

19世紀のオスマントルコとオーストリア・ハンガリー二重帝国(ハプスブルク帝国)間のバランス・オブ・パワーの挟撃で生まれたバルカン半島の民族問題は、ボスニア紛争として20世紀に爆発しました。中東でのイスラエルとアラブの紛争原因は、モーゼの出エジプトなど紀元前までさかのぼらなければなりません。

つまり認知のゆがみは不正確で根拠のない思い込みが影響する分、民族紛争による残酷な報復合戦のような激しい感情へのゆさぶりを持っているといえます。「足元から」という言葉にそれなりの説得力があるのは、こうした非論理的でも情緒的な説得力があるからではないでしょうか。



4.血液型を信じる人の足元

「○○個の単語『だけ』でできる英会話」とか「○○『だけ』で何でもうまく行く」のたぐいのノウハウ書は後を絶ちません。しかしそんな魔法が科学的に存在する訳がありません。それでも血液型占いという、科学的根拠皆無のレッテル貼りは今でも根強く日本人に信仰されているといえます。

仲間同士の他愛ない会話や酒の席の話題として目くじら立てる必要はないでしょうが、これが実生活にまで影響してくるとなると大問題です。私は実際、人事コンサルティングの相談で、「採用面接で血液型をたずねて良いか」という質問を受けたことがあります。

これだけコンプライアンスが重視されるようになった環境下で、血液型のような、能力や人物とビタ一文関係のない個人情報を聞いて良いはずがありません。人事採用や配置で迷信を信奉して経営が行われているとすれば、その企業自体がコンプライアンス以外でもトンデモない経営判断をしかねない恐れがあります。

オカルトや疑似科学がはびこる背景には、科学がいまだ万能ではなく、科学をもってしても証明できない事象もあるからだといわれます。もちろん科学がすべてを解明している訳ではないのは事実ですが、だからといって再現性のない思い込みでの判断は間違いです。他人の足元を見る前に自分の足元を見なければなりません。



5.真の身だしなみ

もし会った人物の靴が泥だらけだったり、激しく汚れていた場合、「この人物はセンスが無い」と一刀両断して良いのでしょうか?もしその場所に来る直前、たまたま急病人を助けるため、運悪く水たまりに足を入れてしまったとしたら?その人は過去、その古ぼけた靴を履いていった時に重要な面会で成功したため、縁起をかついで今回もそれを履いてきたのだとしたら?

心根の優しい人や気合を入れて面会に臨んだ人を、見損なう可能性だってあるのではないでしょうか?もちろんこんな理由は荒唐無稽であり得ない可能性かも知れません。しかし一点突破で全体を判断するという姿勢は、逆にそうした判断すら否定しかねないのです。判断ではなく思い込みはハロー効果で解説したように、ゆがんだ認知です。

「足元に気を配る」こと自体、おしゃれだけでなく自らの姿勢として重要だと思います。こうした言葉も本来は自らを律するためのアドバイスであって、それによって「他人の足元を見る」ためのものではないでしょう。自分に厳しく、他人には寛容であることは紳士淑女の身だしなみとして、それこそ大切なことだといえます。自らの判断を否定し、思い込みに走るような思考にならないよう、日頃から気を付けたいものです。

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6.コケおどしタイトルのビジネス本


ここからは毒吐きコーナー。

評論家の勝間和代さんは次々とベストセラーを連発する中で、ご自分でも中身の薄い本を出してしまったと、自著で書かれています。しかしカツマーブームの下では、ご本人のおっしゃるところの「キャラ売り」で本は売れます。勝間さんに限らず、タイトルは購買決定の最重要要素の一つですから、とりわけビジネス書では過激なものが目立ちます。

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