スピーチでロシアと戦う男 ゼレンスキー大統領の戦略コミュニケーション

圧倒的軍事力を背景とするロシアによるウクライナ侵攻ですが、当初ひとたまりもなく圧倒されると思われたウクライナが予想外の抵抗を見せ、1ヶ月経過の今でも首都キエフを攻略できずにいます。西側中心の武器や資金援助を受け、抵抗戦を展開するウクライナ。中でもゼレンスキー大統領のスピーチは、ロシア軍の大攻勢に対抗できる最も強力な武器とも呼べるものといえます。

私はロンドン大学大学院で戦略と戦争を学び、コミュニケーションを戦略的に展開することで目的達成を図る「戦略コミュニケーション」を提唱し、指導しています。ゼレンスキー大統領の国会スピーチの何がすごいのか、コミュニケーション戦略の専門家として評価したいと思います。

1.孫子「戦わずして勝つ」を実践

ゼレンスキー氏が孫子を知っているのかどうか不明ですが、キエフ国立経済大学(KNEU)出身といわれる同氏。欧米でもよく知られている孫子を学んでいたとしても不思議ではありません。知人のヨーロッパのエグゼクティブともSun-Tzu's "the Art of War"(孫子の兵法)を語り合ったことがあります。

ゼレンスキー氏のスピーチは、日本だけでなく世界各国の議会などで行われ、巧みな言葉遣いで世界中の賛同を得てきました。ロシアとの経済協力関係を断てないドイツには厳しい言葉も使い、別の国では同情を誘う表現も用いるなど、明確に戦略性を込めた内容となっています。

アメリカの連邦議会スピーチでは、ロシアの侵略を真珠湾攻撃にもなぞらえたような表現で、そのニュースを見た日本人から反発の声も上がりました。そんな中行われた日本の国会スピーチ。

単に戦争の当事国首長のリアルタイムスピーチと言うだけでも注目される中、日本に対しても厳しい言葉が飛んでくるのではないかと、大きな注目の中で行われたのです。

もう勝負は付いていたと思います。戦う前からゼレンスキー氏は勝っていたのです。

2.あえて被爆国や原発事故に触れない戦略性

そんな中行われたスピーチでは、ウクライナの悲惨な状況、ロシアによる破壊、ウクライナ国民の被害など、日々のニュースである程度わかっている内容でした。日本への叱責やウクライナへの軍事的加勢要求など、事前に想像された厳しい言葉はなかったといえます。

視聴者の感想では「(もっと厳しい話をすると思っていたので)拍子抜けした」という意見も見当たります。真珠湾のような話が出たら、思い切り反発しようと批判的な目で見ていた人もいたでしょう。

氏のスピーチは、ウクライナの窮状の訴えや、日本への批判ではなく支援への感謝を述べた、至って平穏なものだったと思います。チェルノブイリ原発などの危険性については触れたものの、被爆国であることや福島原発事故にはあえて触れなかったことは、何より戦略的なスピーチだと感じます。

私はすごい構成だと思います。

とりあえず現地のネタをぶっ込むというのは講演など話す仕事をしている者であればきわめて常道の手法です。私も全国で講演していますが、やはり事前に調べてご当地ネタを何がしかすべり込ませることはよくやっています。

しかしゼレンスキー氏は、意図的に触れなかったのだと確信します。

3.パフォーマンスではなく実効

氏は名スピーチを狙ったのではありません。確実に日本という国からの賛意と精神的支援、その結果の経済支援を喚起したかったのだと思います。

どうでも良い平時であればフジヤマでもスキヤキでも触れて良いでしょう。しかし今は戦時。このスピーチを行うことで、これまで以上にウクライナへの関心と支持を集めることこそ、目的だといえます。

だから氏のスピーチは拍子抜けするほどあっさりしていたのです。

自分をアピールする必要も、スピーチの名人という評価も、この演説では不要です。むしろ米連邦議会での真珠湾発言で、それまで賛同・同情一辺倒だった日本の世論に波風が立ったことを的確に理解し、その流れを再び自分たちの方に戻すという、正に戦略コミュニケーションを実施したのです。

スピーチ前から関心は最高潮に達し、しかも結果として前フリとなった真珠湾発言などで批判的な視聴者がいることも前提に、あえて激しい言葉も新たな情報も含めず、至って「普通で平穏な内容」にしたのでしょう。

試合の前に結果は出ていました。

日本への感謝は述べても、日本人の尊厳や心に痛みを与える表現を一切排除した「平穏な」内容によって、期待値を思い切り下げていたのです。パフォーマンスのためではなく、戦略目標実効を狙ったのです。

4.「これからおもしろい話をします」の逆

聴衆ははさまざまな期待をもって臨みます。しかし話し下手な人は「これからおもしろい話をします」と言って、自らハードルを上げてしまうのです。

かといって「つまらない話」だと思われたら、そもそも関心を持ってもらえませんし、見にきたり聞きにきたりしてくれなくなります。だから事前の関心を高める告知といった前宣伝は本番以上に大切なのです。

コミュニケーションはその場のテクニックではなく、仕込みが9割なのです。

氏の場合、世界中から関心を持たれる事件の当事者ということで、事前に最高レベルの関心喚起ができていました。一方同時に喚起されてしまった反発は、実際の中身の「平穏さ」によって、元からの関心と同情を維持しつつ、火消しできたのではないでしょうか。

完璧な仕込みと客イジり。およそ凡人にできるものではありません。コミュニケーションの戦略性を知り抜き、スピーチで世界最精鋭の軍隊と戦う男・ゼレンスキーの真骨頂を見せてもらいました。